精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

大人になってから勉強が楽しくなる、身も蓋も無い理由。

「勉強」は中学生・高校生の頃、御多分の例に漏れず、全然好きではなかった。高校や大学に進学するために習熟しなければならない、一つの知識ゲーム。そう考えていた。

 

これをやれば賢くなれるという実利的なメリットは考えたことなど無い。自分がハマってきたゲームの超劣化版という風に「勉強」を考えていたなと、今ならふと思う。

 

しかし、今やどうか。毎日新しい知識を入れたり、既存の事柄を更新したりしないと途端に不安を覚えたりイライラしたりするという、ヘンな性格になってしまった

 

これまた御多分の例に漏れないのだが、大人になってみれば、やはり勉強は楽しくなったし、好きになったのだ。

 

ただしその理由は全くもって高尚なものではない。もっと言えば俗的な物だ。だから主要五科目の勉強そのものは、歴史を除けばまだそんなに好きじゃない。

 

ということで今日は、何とも等身大で夢のない勉強のモチベーションについて、オトナに向けたことを書いてみようと思う。

 

 

大人の勉強にはアレが付きまとうからです。

大人になってからの勉強が楽しい理由は、はっきり言うとそこに必要性があるからである。

 

他人から強制される、わけのわからない雑多な知識の詰め込みという作業ではなく、必要だから自発的に取り組む。ほとんどはこういう図式になるから、楽しいのだ。

 

もちろん、例えば社内試験に合格しなければ昇進できないといった例外はあるだろうが、人から押し付けられる勉強は普通立ち消える。

 

自分で課題を見つけて、それを埋め合わせる、伸ばすために自己投資する。さもなければ淘汰される。僕はこういう構図の勉強は大好きだったようだ。

 

竹中平蔵氏の言い方を借りれば、「天井の無い勉強」に切り替えた結果、やっと楽しさを感じることができたのだ。その根源は、僕の場合必要性だった。

 

勉強嫌いの子が言う「なんのためにせんといけんのかわからん」という不満は、ある意味入る余地が無い。社会に出てわかったのは、シビアだけど自由だということである。

 

ということで全然文字数を稼げなかったので、以下一例ということで、僕自身の勉強に関する遍歴を語ってみようと思う。

 

”答え”を求め続けた20代。

無知の知というわけではないが、20代になってすぐに僕が悩んだのが、僕自身が現実に対してあまりにも何も知らないということである。

 

この場合はどう言えば良いのかというアバウトなモノから、評価されるプレゼンを作るにはどうすればいいのかという具体的なものまで、問いの答えを探しまくった。

 

そのツールとしてハマったのが読書だ。上記の堀江貴文氏の著書をきっかけとして、そこでオススメされていた本を、片っ端から読みまくった。

 

―そんな風に、悩みについては【答え】を探すような勉強を、僕は20代の間はずっと繰り返してきた記憶がある。そのとき手に取った本を眺めても、よくわかる。

 

例えば、「TED驚異のプレゼン」、「D・カーネギーの『道は開ける』」、「ヤクザ式実践心理術」、「憂鬱でなければ仕事じゃない」等々、だ。

 

そして僕の疑問や課題が解決しなければ、また別の【答え】を求めて、違う本や話を勉強する。その繰り返しであった。

 

もちろんその時間や労力は有意義だったし、そこで得た知識が活かせている場面も、今思えば大量にある。

 

しかし、今ならよくわかるのだが、他人の知識や経験を直接移植すれば即座に解決できるほど、流石に人間社会における課題はシンプルでは無いのだ。

 

そのことを薄々悟り始めたのは、ざっくり30歳になってからであり、その年を境目にして、また勉強との向き合い方も変わっていったのだった。

 

”思索の材料”を探し続けている30代の今。

何回も書いている話だが、【観察力の鍛え方】という本に出会ってから、僕の勉強の意味合いが大きく変わった。

具体的には、人から答えを教えてもらうようなものではなく、自分なりの答えに辿り着くための材料を仕入れるような意味合いに変わったのだ。

 

メソドスを仕入れるだけで満足せず、テクネーを意識してそれを使い、新たな知見を得て、次の仮説を回す。この楽しさを知ったことが、やはり大きかった。

 

だから読む本も、答えがズバリ書いてありそうなタイトルには全然惹かれなくなり、むしろ「著者も思索の途中なのかな」と思えるような本が好きになってきた次第だ。

 

例えば、「大河の一滴」、「大きな嘘の木の下で」、「私とはなにか」、「心の疲れを取る技術」といったものが、最近読み耽った本たちである。

 

イメージとしては、釣れる釣り具を探してそれをで使うような学習から、釣れる釣り具を自分なりに考えて開発するような学習に切り替えたようなものだ。

 

そして最近はそれが楽しい。知識をたくさん知るような時間を重ねたからこそ、できるようになった学習法と言えるかもしれない。

 

ということで、「ただ教科書を開いて、言われたままに納得できない知識を詰め込む」というフェーズさえ越えれば、等しく勉強は楽しいと思うよという話ですた。

 

じゃ、今日はこの辺で。

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村