新しい本を買ってみて数日、まだまだガッツリとした内容に入っていないため期待は持ちきれないのだが、知りたかったことのヒントは書かれていそうだと感じる。
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僕自身、内向的であること、外向的でないこと、活力に乏しく映ること、活動が静的過ぎることについて、何度も何度もマウントを取られてきた。(全部同じことだ)
別にそいつらを見返してやろうなんて露ほども考えていないが、その刷り込みにより、自分を肯定しきるのもまた難しいと感じている。
内向的だからこそ、僕にはどういう強みがあり、どの切り口から世の中に貢献できるのだろうか。そのヒントを、今週も探してみたいと思う。
- 5月8日(月) 内向あるある
- 5月9日(火) 内向と外向は遺伝子レベルで異なる。
- 5月10日(水) 高校・大学デビューをして気付くこと
- 5月11日(木) 昇華
- 5月12日(金) 内向的な人間が外向性を求められるのは徴税に等しい。
- 5月13日(土) 教室で挙手するという公開処刑。
- 5月14日(日) 内気な子が挙手をしない理由。
5月8日(月) 内向あるある
ここからは具体的な内向あるあるの話から、それを説明していく流れになるようだ。一例として、まず学校デビューのそれが登場した。
といってもいわゆるキャラをぶっ壊すとかそういうのではなく、学校という集団に属して初めて、自分が内向的だと気付かされるという、あるあるの話であった。
サマーキャンプに参加して初めて、夜は読書ではなくお喋りのために使う人がいると知る。学校に行って初めて、他者がたくさんいる場所はストレスの塊なのだと知る。
僕自身、未だに新しい生徒が増えるとか、低学年がいっぱい来るとかいった日には、その日の夜はくたくたになって帰宅することになる。
僕らはシャワーではなくお風呂の方が好きなのだ。刺激に晒されることではなく、静かに今この時に対し、ひっそりと向き合う方がよほど性に合っている。
ゆえに尚のこと、なぜ僕は人前に立ち続けることを仕事にしているのか、我ながら不思議に思えてくる。ここはまぁ、可笑しさということで前向きに考えることとしよう。
5月9日(火) 内向と外向は遺伝子レベルで異なる。
僕らは外向的な人を羨ましく思うが、同時に理解できない規範で動いているとも思う。それは外向的な人が僕らを見ているときに抱く感想と同じかもしれない。
なぜあそこまでその後を気にせず行動できる?逆に、なぜ先のことまで考え抜いてしまうのか?という風に、ある程度から先はお互いに相容れない気がする。
その正体は、身も蓋も無いところにあるっぽい。それは遺伝子だ。内向的か外向的かは、遺伝子に刷り込まれた部分によるところが大きいらしい。
ある研究によれば、内向と外向では、そもそも外部の刺激に対する神経回路の働きから、まるで異なっていることが示唆されているという。
それこそ、レモンの酸っぱさに対する唾液の量から異なっているようだ。(内向的な人の方が刺激に敏感なため、多めなのだという)
だからこそ、最終的に外向型人間に生まれ変わることはほぼ不可能だ。どこかで歪が生まれて、刺激の多さに飲まれ、疲労に折れることになるだろう。
ちなみに内向的な人は、外向的な人たちの論理や規範に合わせず、なるべく一人でいられる場所を探し、刺激を減らすツール(耳栓とか)を使うことが鍵になるという。
僕も限界はあるが、一人になれる場所や時間を、もっと意識的に設計しようと、改めて思った。
5月10日(水) 高校・大学デビューをして気付くこと
人間関係がリセットされるのを好機として、高校・大学でデビューをする人がたまにいる。その人が変わろうとするのは自由なので、僕は特に何も思わない。
ただ、外見に気を遣う方のデビューならまだしも、内面を自分の理想とする方に、無理して一気に切り替えるのは危険だなと思う。不慣れなところにイタさも覚えてしまう。
内向的人間が外向的人間になろうとしているとき、実は僕から見ればほぼ的確に見抜くことができる。なぜかというと、その言動がセリフ回しっぽいからだ。
内向型人間は、間違ったことを言いたくないという思い、もとい恥への恐怖が強い。だから、言葉をかなり選ぶ。選ぶから、どこか不自然な言い回しとなる。
外向型人間ならこういう思考をして、こういう行動をするはずだと、イチイチ方程式に値を代入して解くようなことをするのが、内向型人間の関の山だ。
僕自身、頑張って外向的になろうとした時期はある。ただ結局、外向型人間の思考を、ちょっとだけ上手にトレースできるようになっただけだった。
いくら物真似の精度を上げても、しょせん物真似だ。オリジナルにはなれない。そういう悟りを得るためには、一度デビューしてみるのも、有益だなと思う。
ただ、内向的なことを言い訳として、例えば特別に悪くあることで同情を買うとか、身だしなみを適当にするとかは大事な友人ごと全て失うので、そこは気を付けよう。
5月11日(木) 昇華
元々は理科の用語なのか何なのか知らないが、僕は昇華という言葉が好きだ。一見欠点に見えることをうまく転用し、メリットに繋げる。実に前向きな言い回しだ。
内向型であることはただの性格であり個性なので、欠点とひとくくりにするのは乱暴だ。しかし社会は不思議と、内向はダメ、もっと外向であれと説く。
であれば同じくらい外向型人間にも「二手先くらいまで考えて喋れ」と指摘せねばアンフェアな気がするのだが、その辺は常識を通り越した文化なのだろうと諦めている。
ある程度までは、内向・外向の気質を認知の力などにより、ゴムバンドの如く幅を持たせることができるそうだが、天性の差はそうそう埋められないという。
僕は多分内向全振りで、頑張っても偏差値40程度の外向しか得られないと思っている。だからこそ、実は現場ではなく管理に特化した方が成果が埋めると感じている。
だがそれは「甘え」だと言われる。僕もそうだと思う。なぜかというと、僕を管理全振りにすることの方が利益が出ることを何も証明していないのだから。
ある内向的な人は、自分の特性・才能について、他人への懇切丁寧な説明と、映画というエンタメに昇華することで、武器になることを証明して見せた。
僕は何を果たすことで、内向性を武器として周りに納得させることができるだろうか。また一つ、沈思黙考して考え抜きたいテーマができた瞬間であった。
5月12日(金) 内向的な人間が外向性を求められるのは徴税に等しい。
凄く上手いと思った言い回しに出会った。内向的な人間が学校といったパブリックな場で外向性を求められることは、いわば税金のようなものである、と。
それは社会に参加するための利用料のようなものだし、人によって負担の程度は変わるのもそうだし、参加する限り逃げられないという意味でも、本当に似ている。
だからこそ、内向的であることを隠す必要はないけれど、最低限度のそれを払うような言動を取った方が、ストレスは無いし、可能性を殺さないとされていた。
まずは数名の心許せる友人と交流を深めよう。自分が落ち着く場所を見つけよう。時折そこでエネルギーをチャージしよう。少しずつ外向性を身に着けよう。
自分の本質を偽ったり破壊したりする必要はない。一種のドレスコードみたく割り切りながらも作戦を考えるのが、僕らが取るべき一番健全な対策なのかもしれない。
5月13日(土) 教室で挙手するという公開処刑。
間違えることは恥ずかしいと気付く前、僕は挙手ができていた。だが今は正直、「言い間違いしてるなー」と思っても、面倒なので会議中も基本黙している。
特に推薦入試を狙う生徒は、学校で挙手するという謎制度に対し、果敢に挑む必要がある。傾聴は認めない。発言しないのは参加していないのに等しいのだ。
内向的な人はどうやってこれに向き合うのか。それについては、自分がそこまで恥を感じないパターンを見出し、それに合致するチャンスで挙手するのがイイ。
勢いで手を挙げただけのアホの尻拭い。そのタイミングであれば発言できるならそうすればいい。切り込み隊長も評価されて、あなたも評価される。素晴らしいではないか。
今日もどこかでこういうやり取りが水面下で行われている。そう思うと、茶番だなとどうしても心のどこかで思ってしまう。
まぁ、義務教育を終えた身だから言えるんだろうけど。
5月14日(日) 内気な子が挙手をしない理由。
内気な子(特に女子)が挙手をしない理由について、すごく興味深い意見が書かれていた。
僕みたいなカスは別として、授業中に沈黙することは、何も不参加という意思表示ではなく、特に意見を加える必要が無いと思っているだけな可能性が高いようだ。
発言をするのは、言いたいこと、伝えるべきこと、さらに良いアイデアなどを閃いたことなどがきっかけであるのが好ましい。そうでない発言はただのガヤだ。
そして発問する側になってみるとよ~くわかるが、思い付きや、1行日記のようなボヤキは、説明の邪魔でしかない。無邪気に声を上げればいいってわけじゃないのだ。
説明や会議を円滑に進めることを至上として、話すべきところ、黙するべきところの分別がついている。そういう内気なタイプもいることは、重々承知しておきたい話だ。
ただ僕みたいに、元々話を聞けないし聞く気もあんまり無いうんこもいるので、そこは難しいところなんだけれども、だ。
―ということで今日はこの辺で。