今回の本は、「START WITH WHY」とはまた違った理由で、自分の心に刺さっていく。かつての自分が受けてきた言葉や解釈が、そこに並んでいるからだ。
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発言さえすればいいと思っている先生の面倒くささ然り、喋らないことは反抗とみなす風土然り。最低限の話を聞いていることは、テストの結果を見ればわかるだろうに。
もちろん本書はこんな愚痴が並んでいるわけではなく、こういう場合はこういうことを思っている人もいて、もしあなたがそうならこうしてみようという提案で結ばれる。
葛藤を小説にすることで救われる人がいるように、別の人が自分の思っていることを言葉にしてくれているのを読むだけでも、結構心は洗われる。
平易な英語で書かれているのも嬉しいので、早速今回も、内向性の持つ力を探っていこう。
- 5月15日(月) 己のやり方を探ろう。
- 5月16日(火) 恥は大抵妄想が勝っている。
- 5月17日(水) VS挙手
- 5月18日(木) 尊重無きグループワークは地獄
- 5月19日(金) 内向的リーダーの特徴。
- 5月20日(土) 内向型の活躍と、安心・安全の担保。
- 5月21日(日) 集団内で内向性をどう活用するか。
5月15日(月) 己のやり方を探ろう。
内向的に生きていると、発言をしない。発言をしないということは、議題に興味が無いと思われがちだ。僕自身、そう解釈されても、面倒なので特に否定してこなかった。
とはいえ実は、頭の中で代替案を考えたり、疑問点を考えたりはしている。ただ、それが、挙手という恥や手間をかけてまで言うべきことだと考えていないだけだ。
会議で僕は積極的に発言することはあんましない。会議そのものが嫌いなので、とっとと終わればいいと思っているからだ。僕の一言で議論が盛り上がったら頂けない。
しかしそれを拗らせると、周りから叱咤されたり呆れられたりでめんどくさい。だから筆者も提唱していたが、自分ルールを作り、それに触れたら発言することにしている。
一つは、会議が脱線しまくっているのに、全員がそれに気づいていないとき。もう一つは、当然だが指名されたときだ。その時は発言を僕はする。それ以外はほぼしない。
こんな風に、まずはハードルがアマアマの自分ルールを作り、そこに触れたら一言発言するというのを繰り返す。そこが内向型人間が意見を言う初めの一歩なのだ。
意見を一言も発信しないまま大人になると、社会性のスキルが未発達となり、また変に価値観が拗れる可能性があるため、就活等でも不利になる。
内向的なのは弱点ではなく強みなのだ。言葉少なに建設的なアイデアを言えるよう、常日頃から考えておくクセをつけておきたい。
5月16日(火) 恥は大抵妄想が勝っている。
未知に対する恐怖と恥は、非常に似ている。というより、ほぼ同一のモノである。だから手を挙げることはあんなにも怖いのだ。
笑われたらどうしよう。間違えたらどうしよう。経験したことのないという未知への恐怖が、恥を加速させる。しかしその実際は、妄想を超えることなどほとんどない。
慣れと言うのは不思議なもので、僕も最初は発言そのものが恥ずかしかったし、対案を言われてなぜか傷つくような感情を抱いたこともあった。
しかしそれを二度も三度も繰り返すうちに、視野が広がっていった。言葉の意味が咀嚼できるようになり、対案には人格否定的な意味合いなど露ほども無いこともわかった。
結局、恥を軽減する心構えやテクニックはあるのだが、最終的にそれを打ち破るには行動しか無いのだ。変わりたければやはり、動くしかない。
そして大抵、大したことないと思うに至るのだ。内側で悶々と妄想を膨らませる方が問題あり、なのである。
5月17日(水) VS挙手
集団の中で意見を発信するという難題にどう立ち向かうか。ひっくるめれば、自分の得意な型やシチュ、タイミングを狙って、スポットで発言すればよさそうである。
質問をする方がいいのか、他人の意見を発展させる方がいいのか、当人が気付いていない穴を指摘するのがいいのか。タイミングは会議の始まりか、途中か。
自分が得意な、あるいはまだ発言しやすいところを狙っていく。これが有効にして、しいて言えば一番簡単な作戦なのではないかと、内向的な僕も感じている。
5月18日(木) 尊重無きグループワークは地獄
内向型人間にとってはグループワークは時として地獄になる。僕も最初は大嫌いだったが、今は人並みには協力できるようになったのではと思っている。
ある子は、やる気がない人ばかりとグループを組むのを好むという。理由は全員やる気が無いのだから、一人でさっさと進められるからだそうだ。強く同意する。
しかしそうもいかない場面のときはどうするか。例えば、外向的な人も内向的な人もまぜこぜになったグループの場合とか。
この場合は、各々の適性に任せて仕事を分担するのが理想ではある。映画を作るのなら、外向的なヤツに演者とナレーションを任せて、内向的な人は編集をすればいい。
ただ、この辺の尊重が無いと、「みんなで出ようぜ!」とか「みんなで編集すれば早く終わるよ!」という有難迷惑が発生しがちである。
分業は不参加を意味しない。怠惰を意味しない。そのことを義務教育下では習うのだろうか。本当にふとそんなことを思った。
5月19日(金) 内向的リーダーの特徴。
内向的なリーダーは、時として外向的で雄弁なリーダーをも凌ぐ。ただし、単に性格がそうであることが条件ではなく、内向的ゆえのある思考法が大事らしい。
それは、インプット癖だ。それに関する、ある面白い実験がある。その手順は、ざっくり以下の通り。
まず、何十人かの人を5人程度のグループに分けて、その上で彼らに、「シャツを10分でたくさん折る」という指示を与える。
それぞれのグループには事前にリーダーを決めてあり、アンケートを取ったのか知らないが、内向的・外向的の比率がいい塩梅でバラけるようになっている。
そしてワークがスタートするのだが、ここで一つカラクリがある。それぞれのグループには”演者”がおり、彼(彼女)は開始前に、こう発言するのだ。
「俺、早く折る方法知ってるけど、知りたい?」と。
―この問いについて、リーダーがどう返答するかで、結果に差が出たのだ。これを素直に受け入れて、チームでシェアした人は、折れた枚数としてかなり優秀だったそうだ。
そしてアドバイスを受け入れるという判断は、内向的な人の方が素直に下しやすいという傾向が出たのだという。
インプットに全く抵抗が無い。提案を人格否定と取らない。自分こそが絶対的な正解という面倒なプライドを持たない。内向的な人の武器はこれなのだと説かれていた。
・・だからこそ、プライドがデカいだけの内向的な人って無価値だなと改めてぞっとしたので、無駄に自尊心を膨らませない方法は、これからも学び続けようとも、思った。
5月20日(土) 内向型の活躍と、安心・安全の担保。
ミーティングにおいて輝く内向型の方々の例をみていると、ある共通点に気が付いた。それは、ある種安心・安全が担保された集団内では、意見が出せるというものだ。
これは当然だと思われるだろうか?僕もそう思うのだが、逆に考えると、少し気にしたくなるポイントが見れた。
それは、内向型の人が発言をしないとき、その集団はその人にとって安心・安全が担保”されていない”と思われているかもしれない、というものだ。
例えば反射的に意見をイジる、提案はなんだかんだで受け入れない、結局目上の意見が採用されるといった闇がある場合、僕なら絶対に発言を避ける。面倒だからだ。
内向型の人を活躍させるには、ケツを叩いて無理矢理でも指名して言わせるというスパルタな人もいる。仮にそうされたら、僕なら短く適当なことを言って終わらせる。
安心・安全の担保。【We are lonely, but not alone】で読んだコミュニティ論の根幹アイデアが、またしても繋がってきた。これだからインプットは面白い。
5月21日(日) 集団内で内向性をどう活用するか。
僕は会議が嫌いなのだが、その理由が段々とクッキリしてきた。その大半が意見を頂戴して何かを改善するのではなく、共通認識を持つことが狙いだからだ。
そんなもん、例えばLINEでアンケートを投下し、見ていない人を炙りだすシステムを組んで、それで認識をさせた方が生産的だ。
雁首揃えて、人数分×時給を使うほどの価値は、そこにはない。そういう反発があって、会議が嫌いだと、改めて納得した。
―では、生産的な会議にするには、何が必要なのだろうか。僕はこれについて、順序が逆なように思えてきた。
会議が必要なほどのプロジェクトが、今現在そもそも回っているのか。こういう問いの方が自然な風に思う。
内向的な人が意見を出さないときは、その会議の目的に立ち返るようにしたい。これはみんなで承知したという言質を取りたいのか、否か、だ。
前者なら正直どうでもいいし、後者であれば、発言する、あるいはさせる工夫を相互に考える必要があるわけで。
内向的な奴は会議で話さない。そういうステレオタイプを疑うと、会議そのものの意義に辿り着くなんて、面白い話だと思う。
―ということで今日はこの辺で。