この仕事を10年以上やっていると思われがちですが、実は今8年目になりたての中元です。
はい。こないだ、表題の通りの件で、ちょっと保護者に怒られた。(激怒というほどでもないのですが)
いわく、授業中の雑談のせいで集中が切れやすいということであった。つまりそういう要望が寄せられるということは、生徒自身も日常的にそう思っているということ。
休憩兼ねて良かれと思っていた雑談だが、おもくそ裏目に作用しており、ちょっと驚いている。(まぁ、ちょっと入れ過ぎたかなと思う面もある)
今回はクレーム案件になったり、講師交替になったりしなかっただけめっけもんと言っていいくらいの内容なので、安堵しつつも、ちょっと反省はしておかねばならない。
ちなみに反省とは、学びをそこから抽出し、そしてコミュニティ内でシェアすることだと僕は考えている。当人がただ凹むことは、反省とは似て非なるものなのだ。
感情を排し、細かな構成要素へ分解し、どこでエラーが発生したのかを言葉にする。落とし穴があったのだから、その場所を皆で共有するのは当然だ。
ただ現状、僕にはシェアするコミュニティが存在しない。また、社内で共有するには、あまりにも個人的で些細だ。なんか悔しい。だから今日は、それを記事にする。
雑談スキーな人は、ちょっと真剣に読んでいただければ嬉しい。では本題に入ろう。
「雑談」は誰のため?
「雑談」というとすごく無駄なことを話している時間に聞こえるが、これを重視する先生は、実のところ結構多い。
例えば東進衛星予備校の今井先生・𠮷野先生の授業だと、毎コマ10分程度、雑談だけの時間があるほどだ。受験生の頃は、その話が待ち遠しかった記憶がある。
それは休息のためとか、その時間を通じて人生訓を伝えるためとか、目的は様々だが、あくまでもベクトルは生徒に向いていることが前提となっていた。
林修先生の著書の中にも、コラムとして、生徒に向けた大事な教訓が含まれた小話が載せられていた記憶がある。軽視する人は、もしかしたらいないのかもしれない。
一方今回の自分の件はどうかというと、そういう側面はあったのはあっただろうが、単に自分がしたい話をしてしまったナァという心当たりもある。
ベクトルが生徒の方を向かなくなったとき、雑談は自己満足な漫談となる。僕もその被害を何回か受けた側なのに、与える側になるのはなんと皮肉な話だろう。
ちょっと精神論になるが、「気が弛んだ」ということかな、と。そこですかさずチクッと言われたのは、やはり幸運だと思わざるを得ない。
もちろん、だからといって雑談全てを否定する気も毛頭ない。むしろ、雑談を軽視したままだと、それはそれでクレームに繋がるから難しい。
例えば入塾してすぐの段階は、講師側も生徒側も、お互いを全く認知していないところから始まる。そのフェーズを超えるには、人となりをある程度知る必要がある。
そこのアイスブレイク役を果たすのが雑談だ。僕も新人講師には、初回の授業は最低でも10分程度は雑談をして、仲良くなることをまず最優先させるほどだ。
―しかし、ある程度打ち解けてからだと、その時間はそこまで要らなくなる。毎度毎度雑談が多いと、それはそれで確かに鬱陶しくなってくるのは、その通りだ。
打ち解けてきたなと思ったら、本業である授業に力を入れるべきだ。雑談とは最初のラポールを築くためのものであり、いわば話を聞いてもらうための下準備なのだ。
・・・とはいえ、アカデミックな話全振りにすると、それはそれで授業がつまらなくなってくるのが難儀なところである。落としどころは、どこにあるのか。
この辺りについてのヒントがほぼストレートに書かれているのが、講師向けに書かれた、ちょっと珍しいこの一冊だ。(実用書ではあるのだが)
ここでは、もっと長尺でカリキュラムを考えて、その中で波を作ること、といったアイデアが紹介されていた。
例えば、雑談に重きを置く期間があってもいいし、学校単元の指導に全振りする期間があってもいい。ただ、それを意識してコントロールするのが大切なのだ、と。
ちょっと抽象的になるが、平々凡々な授業は秒で飽きられるものの、山あり谷ありの変化があれば飽きられにくいのだから、そのイメージで、ということだろうか。
つまり、毎時間毎時間おんなじテンションや内容で喋るラジカセ授業は論外で、メリとハリが大事ということなのだ。
そしてその意識を常に持っておくのもそれはそれで難しいのだから、最初から長いスパンの計画を事前に立てておき、ここは緩く、ここは〆るというのを決めておく。
一例を挙げるならば、定期テストが終わってから1~2週間は緩くてもいいが、そこからはじわじわと引き締めていく、という感じだ。
ただその中でも、難しい単元に突入したら、最初に決めたフェーズを無視してでも気持ちを引き締めていく。そしてその心構えは逆もまた然り、である。
―ちなみにそんななかでも、例えば例文でちょっとフザけるといったユーモアは常に持っておくことというアドバイスも載せられていた。
これくらいなら許されるよな、許してほしいなという期待を込めて、次の授業は雑談の時間は取らず、例文でちょっと遊ぶという風にしたいと思う。
・・・ってことでまとめておこう。
雑談は、関係性を築く最初のタイミングでは非常に大切だし、勉強に関係あるなし問わず、講師の魅力に寄与する大事な時間ではある。
しかし、そのベクトルが生徒を向かなくなったら本末転倒。また、その時間を毎度毎度律儀にとっていくと、煙たがられるリスクも生じてくる。
長尺でカリキュラムを考えて、緩めていいフェーズ、締めるフェーズを事前に見据えておき、その中でさらに微調整を加えていくべきだ。
尚、その中でもユーモアを忘れては元も子もないので、例文でフザけるといった遊び心は持っておく。
というところだろうか。社訓にするにはあまりにも長くてしょうもないが、僕はこれを機に、一層心に刻んでおく。
改めて「講師たるもの五者たれ」というフレーズ、理由を添えて暗記するとしよう。
補講:授業内のメリハリはどう生むか?
ここからはちょっと補講になるのだが、せっかくの機会なので、改めて考えてみようと思う言葉がある。それは「メリハリ」だ。
冷静に考えれば、わかるような、わからないような、つかみどころのない言葉だ。気を緩める、気を張ると言い換えても、なんかしっくりこない。
こういうときは、まず辞書を引くに限る。すると、定義はこんな感じだった。
1 ゆるむことと張ること。特に、音声の抑揚や、演劇などで、せりふ回しの強弱・伸縮をいう。「―のきいたせりふ」
うーむ、なんかまだ掴み切れない。こういうときは英語の意味からも見つめてみよう。
”メリハリ”を英語で表現すると、色んな意見があったが、【Balanced】という表現がしっくりくるそうだ。意味合い的には、「調和のとれた」だろうか。
するとちょっとイメージできた。例えば、演習とはアウトプットである。説明はインプットである。作業の性質として、別物だ。
休息をニュートラルな時間として、演習と説明の時間を大体同じに整えること。これが、講師・授業におけるメリハリではないかと思えてきた。
ならば、既知の事柄に、ヒントになり得るものがある。それはタスクシフトだ。作業の”性質”に注目し、適宜それを切り替えながら【学習】という時間をつくる。
今までも心掛けていたことではあるが、更に明確に、強く心がけてみようと思う。アドリブと思われていた声掛けや施策も、実は一つの想定とか、カッコいいじゃん。
まずは全体の説明を入れる。そしたらそれと同じ時間の演習を入れる。また別の説明をして、最後にまた演習で締める。雑談や伝達事項は調整時間として使うのだ。
とはいえ、演習と説明を交互に重ねていくだけでも、心掛けとしては十分だと思う。最長25分程度を自分の中の縛りにして、一層気を引き締めよう。
終わりに。
以前ならすごく落ち込んで、自責に忙しくなったり、ちょっとした反発を抱いたりしていただろうが、今はただただ、ニュートラルだ。悪く言えば他人事だとも思う。
やはり、知ることは偉大だ。言葉にすることは、安心だ。自分の成長を喜ぶ側面も、どこかに感じている。
とはいえ、気付けば文字数が3,500を超えていることから、内心結構動揺したということも伺える。まだ未熟だが、これは伸びしろと考えて、気にしないこととしよう。
ただ全体的に振り返ると、同じようなことを繰り返すある種マンネリズムに陥っている際は、どこかで必ず不満・不安・隙が生じていることはほぼ確実なようだ。
内容だけでなく、スタイルでもそうなるとは予想外だったが。これもまた一つの教訓なりや。
ま、ひっくるめればいい反省の機会であった。何かヒントになることが書けていたら嬉しい。帰ったら酒飲んで寝よう。では今日はこの辺で。