内向的故に自分を見つめることが習慣というか自動化している僕なのだが、それでも一つだけ、まだほとんど全く掴み損ねている自分の特性がある。
それは、どんな思考、あるいはどんなメタからの声掛けをすれば、自分は最速でミスや挫折から立ち直れるか、である。内向的ならば、知っておくべきことではないか、と。
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実際さっきも間違い電話からの半クレームをやらかしてしまったのだが、20分以上も頭から血の気が引いた感覚が続き、今も今で注意散漫、思考がオーバーフローしている。
僕に圧倒的に欠けている自己肯定の術。この本を読んでいる内に掴みたかったが、それは宿題に残りそうだ。恐らく今週で読み終わる。
内向的について思い巡らす契機になった名著、残り少しだろうと、余すことなく読了してやろうと思う。では以下、その内容について書いていく。
- 7月31日(月) 導く者。
- 8月1日(火) まずは肯定できるかどうか。
- 8月2日(水) 成長は環境である。
- 8月3日(木) 回復も環境である。
- 8月4日(金) 謝辞。
- 8月5日(土) 次の本。
- 8月6日(日) 未知への情熱。
7月31日(月) 導く者。
親として、内向的な子にどう接するか。僕は自分の子供を持つ気はないため、この項は例えば姪や生徒が内向的だった場合、どう接するかという目線から読んでみた。
まず伝えなければならないのは、どんな性格や個性も、優劣や上下が存在しない、いわば使い方次第でどうとでもなるオプションだということだろう。
例えば日本刀は、モノを斬るのに最適な道具の1つだが、それで野球ボールを弾き返すことには全く向いていない。極論だが、ロジックは同じかな、と。
それを伝えてヘンな固定観念をぶっ壊し、そしてその上で、その子が没頭できる世界を探すべく、一緒に色々な扉を開けて、世界を教えるのもまた1つかな、と。
僕は父親には向いていないが、アイスプラネットのぐうちゃんみたいな立ち位置はすごくしっくり来ると捉えている。
ふらふらして世界を見て伝えてあげる。そんな大人になりたいなと、31歳にして思わされた。
8月1日(火) まずは肯定できるかどうか。
内向的な性格に生まれた子がまずぶち当たるのは、社会的理想を自分は満たせないというギャップである。
その点は発達障害を持つ子供にとっても同じなのだが、自分の一挙手一投足が好ましくないとラベリングされ、疎まれるというのは、本当に生きていて辛い。
そして矯正し、迎合し、同化するという道を選び続けて、それに上手く適応できればまだマシだが、結果として本心を完全に置き去りにしてしまうと・・これもまた辛い。
このループを断つには、肯定しかない。だが自己肯定は、ぶっちゃけ僕も全然できないくらい、難度が高い自己暗示だ。だから他者、特に保護者から、その子を肯定すると。
なんでも「でもそれってこういう強みだよね」とか、「こう考えれば前向きだよね」と転換できる人は、強いし、人望もある。
凄く棚上げ感はあるが、せめて他者に伝える言葉くらい、僕はポジティブであろうと改めて誓った。
8月2日(水) 成長は環境である。
何か大きな流れに身を任せるような人生の歩み方もアリだとは思うが、主体的な選び取りをできる部分が無くなるというリスクもある。
内向的ならば発表なんて自傷行為はせず、永遠に観客であり続けるという手もある。しかし強制的・自発的問わず、その場に立つ必要があるとなったら、どうすればいいか。
今回の考え方はすごく建設的で好きだと思ったのだが、言葉を与え続けて自己重要感を満たすより、とっととそれの疑似的な環境を用意すればいいそうだ。
この考え、極論に見えて、凄く納得する。なぜなら、不安とは対象を理解していない際に覚える感情だからだ。つまりどんなもんかを知るだけで、その大半は霧散する。
成長は環境である。また一つ、身に染み込ませるべき教えに出会えたと感じた。
8月3日(木) 回復も環境である。
学校とは、演技しながら過ごす場である。本書の最後に書いてあるこのメッセージを読んだとき、思わず膝を打ちそうになった。
そして演技とは、常に目標とする人物像を頭に意識しながら一挙手一投足を選び取っていくことに他ならないため、神経がものすごく磨り減る。
結果、内向的な人ほどメンタルを消耗し、家に帰ったらぐったりしてしまう。このプロセス、自分事として、非常に納得がいく。
親ができることの1つに、そういった子供たちの逃げ場・居場所・アジトを用意しておくことが必須、とあった。平たく言えば自分の部屋と時間だ。
家で勉強している姿を見せないから不安というお家の方の話は、耳にタコができるほど聞いてきた。だが、そうやって遮断する時間は、多分マストなのだ。
常にだれかの目に晒されている状態とか、耐えられるわけが無いのである。
8月4日(金) 謝辞。
遂に読み終わってしまった。最後は編集・執筆に協力してくれた方々への謝辞、そしてアイデアを提供してくれた同類への感謝が綴られていた。
ここまで徹底して、いわば社会的には「直すべき」としか言われない内向的な性格を肯定してくれる本は、なかなかに稀有なのではと思う。
それでありながら、外向性を決して非難することはなく、単なる個性なんだから、強みしかないわけないし、同じく弱みしかないわけもないのである、という想いを感じた。
「そんなに人見知りなのに、なんであちこちいけるの?」と僕はたまに訝しがられる。僕は地の性格をHSS型HSPかなぁと捉えているが、一番面白くない説明はそれだろう。
少しは夢のあることを言うと、楽しいことや好きなことが対象となれば、多少の人見知りなんてどうでもよくなる、という感じだ。
そしてアグレッシブだけど内向的な人は、割と同じような考え方をシェアしているようだ。それを知って、急にエマ・ワトソンが、僕は好きになった。
さて。次は何の本にしようかな。実はテーマは決めているのだが、まだ探していないというところだ。明日には決めんといかんのだけどなぁ・・。
まぁ、それもまた一興。いい本でした。
8月5日(土) 次の本。
ところで、次の本はすぐ決められた。それはマーカス・デュ・ソートイ氏の「The Great Unknown」というものだ。直訳すると「大いなる未知」とかそんなだろうか。
内容ではなく、著者が好きで、素数の音楽を読んでからというもの、洋書の方でこの人の言葉を読みたいなとはずっと思っていた。だから今回、踏み切ったわけで。
ページ数は驚きの400強であり、僕は多くても1日4~6ページずつしか読まないので、単純計算やっぱり半年以上かかる計算だ。
しかし目的は速読ではなく、洋書を読む時間を日課にすることなので、そこは気にしないことにする。
人類の”現時点での”知識の限界。そこまでの旅路を紹介しつつ、その謎が既知に変わることはあるのかを問いかける。すごく胸が躍りそうな紹介文が載せられている。
明日からこちらを、楽しみにしていきます。
8月6日(日) 未知への情熱。
著者の子供時代は、「なぜ」と科学・数学に熱狂していたようだ。問題とあらば解かずにはいられないし、謎と聞けば答えを知らずにはいられない。
親に頼み込んでサイエンス雑誌を購読し、学校の先生からは年不相応な難度の本を紹介され読み耽る。典型的なエリートの幼少期という感じがする。
知らないことを知ることが楽しい。アドレナリンが無尽蔵に放出される。その気持ちは自分の中にもある気がする。だがそれに正直じゃなくなってからも久しい気がする。
この本を読みながら、失った自分の熱さや原体験に出会えたらいいな。そんなことも祈っている。楽しみだ。既に思う。いい買い物をした。
―ということで今日はこの辺で。