「決断力」や「大局観」、そして「運を支配する」といった、将棋や麻雀といった頭脳戦をテーマにした本にはよく、「型」について書かれている。
上達のためには型は大事なのだが、一方それに固執すると対策されやすくなり、「型にはまらなければ弱い」という脆さにも繋がり得る。そう指摘されているのだ。
そういう話を知っているのか、それとも単に天邪鬼なのか、時折敢えて自分の不得意な型を用いたり、YouTubeで観たテクニックを使ったりする生徒がいる。
後者は、広義で言えば試行錯誤の大事な一環なので特にいうことは無い。ただ、前者は本当に不思議な話だ。なぜ、自分で自分の実力を下げる方法を採るのか。
その理由を聞くと、「いや、たまには苦手なやり方もやっとかんと、不安で・・」ということが多い。それについて、言いたいこと。
受験においては、「得意な型に固執するのは甘え」なんてのは無い。
今日はそんなことを書いていく。
オールラウンダーを無条件でカッコいいと思うのは、ただの厨二病です。
オールラウンダーという心構えをカッコいいと思う人はいる。それについては、ある程度まで僕も同意する。
将棋で言えば、居飛車しかさせない人より、振り飛車やゴキゲン中飛車で指せる人の方が輝いて見えるし、トータルで見て強いのではなかろうか。
だから、色々な型を持っておくことは大事だし、色んな戦略を吸収して己の物にしていくプロセスは、武芸等における習熟や熟達において、欠かせないプロセスとなる。
―だがそれは結局、直接勝敗を決めるような場面に限るともいえる。例えば投手に応じて打撃フォームを変えて、特に意味があるのだろうか。
あるいは、対戦相手の格闘スタイルに応じて、その試合だけ空手からキックボクシングに切り替えたとして、本当に勝負になるのだろうか。
そういう具体例を挙げてみても、つくづく思う。受験においては、一つの型にこだわることが悪だと、僕は別に思わない。
「もしかしたら今年から線を引きながら読むのが禁止されるかもしれない」という不安から、線を引かないで読解をする生徒を想像すると、やはりなにかむず痒い。
仮にそういうルールが急に設定されたとしたら、僕は出題側の神経を疑う。線を引かなくても文字が読めるやつが欲しいという、その意図が分からないからだ。
受験にオールラウンダーは要らない。自分が解きやすい型や作戦を見つけて、その練度を高めていくのが王道だと、僕は考えている。
あらゆる塾講師や教師が各々の経験やテクニックを語っているが、それは何もその全てを吸収しろという意味ではなく、自分に合う技をその中から探せという意味だ。
それくらいで構えておいた方が、健全だと僕は考えている。
・・・ちなみに、ここからは僕自身の話。僕はただ文章を流し読みするときと、読解が絡むときでは、文章の読み方が結構異なる。
「これを読んで、解け」という前提がある文章を読むときは必ず、線を引きつつ、接続詞に〇を付けつつ、因果といった関係を矢印で図示しつつ、読む。
いわば読みながら文章をスッキリさせていかないと、とてもじゃないが情報を頭に保持することができないのだ。
試しに今日も、共通テストの問題を敢えて線を引かずに読んでみたが、普通に大事な情報を読み落として、失点をしてしまった。
ただ、線を引きながら読むことが許されるなら、僕は長文をほぼ落すことは無いという自信もある。得意な型があるなら、それ以外のやり方をする意味はまず、無い。
似たようなことはリスニングにも言える。僕はメモを取らずにリスニングを解くことができない。やっぱり、集中が途切れる。そもそも話を聞くのは苦手だからだ。
僕がTOEICを受検する気がさらさらないのは、そこに理由がある。自分の得意なステージで戦えないので、めんどくさいという気持ちが無茶苦茶強いからだ。
そんな風に、自分が得意な型があるのなら、別にガッツリ固執して良いと思う。暗算でやるか、図に書き起こすかは、要は自由なのだから。
受験においては、「得意な型に固執するのは甘え」なんてのは無い。繰り返し、これは書き添えておく。
では今日はこの辺で。