僕は考えすぎる。我ながら、すごく、考えすぎる。杞憂の基になった逸話の人くらい、考えすぎている気もする。
思考する時間は、超トップ層の人から見れば鼻で笑われる程度だろうが、全国偏差値で言えば55くらいの水準で、考えすぎているのではないかと自負している。
考えれば考える程未来が見えて、色々な手が打てて、面倒なことを回避できて、より良い選択肢を取れる。無意識下で僕は、そのような思考を妄信しているかもしれない。
実際はそんなことあり得ないし、度が過ぎれば害になることも分かっている。しかしそれを表立って論破されたことも無かったので、どこか相反する感情を抱えてきた。
そんな折、「未来予測は度を越したらマジ不毛だよ^^」というメッセージを、遂に納得せざるを得ない形で受け取ってしまった。
その送り主は「カオス理論」である。いわば数学的に、僕はこの考えすぎ癖を論破されてしまったのだ。
だがそれはそれで、すごくスッキリした気分でもあるので、別に悪いことじゃないな、と。
てことで今日は、「考えすぎ」の不毛さを、数学的に考えてみたいと思う。文系なので厳密性に欠けているところがあったら、ご容赦くださいまし。
カオス理論とは?
最近知った言葉の中で、特に気に入っているそれとして、「カオス理論」というものがある。
↑のYouTubeの動画を観ていただけるとよくわかるが、振り子が三重になると、その動きは完全にランダムで、何の規則性も無いように見えてしまう。
こういうのをカオス的挙動というらしい。専門的に言えば、入力値がわずかに違うだけで、その後の挙動が大きく異なってしまうこと、という話だという。
実際、同じ高さから落としているはずであっても、室温・湿度・微妙な力の入れ具合のズレ・角度などが違うと、振り子の挙動は全くの別物に変化する。
もちろん理論的には、それでもあらゆる数値を把握し、何かしらの方程式に代入することで、その挙動を予測することは可能である。
ただ実質的に、もはや無数と言っても良いくらいの膨大な数値を全て把握することは、もう不可能だ。
天気予報の精度が100%にならないのも、これが理由である。どっかの台風のせいで、日本の天気は簡単に様変わりしてしまうのだ。
―そしてこれは、実は人間社会においても同じである。
僕らがどんなことを思い、どんなことをしたから、こんな結果になったというシミュレーションも、いわばカオス的なものだ。
少し頭がおかしい話をするが、軽く読み流してほしい。
こないだ僕は、誕生日プレゼントとして、結構いいコップを貰った。実は自分でその内買おうと思っていただけに、この贈り物は純粋に嬉しかった。
この出来事は、僕という個人から見て、紛れもない幸福である。
しかし、コップを貰ったことで、未来の僕がそのコップを買いに外出するという選択肢が消えることになる。
そしてそのコップを買いに外出するという行為がなければ、その当日、その時刻で、例えば1階の住人の不始末によるガス爆発に巻き込まれるとしたら?
こんな風に、僕にとって幸福だったはずの出来事が、最悪の不幸のトリガーに変化してしまう。
これは、逆もまた同じだ。
例えばこないだ、理不尽なクレームを食らって心身を無駄に消耗した話は、何回か記事にした。
もしかしたら、そこで読んだ話が別の誰かに刺さって、その人が別の理不尽を回避することに繋がるかもしれない。
鶴の恩返しじゃないが、それによって恩義を感じたその人が、巡り巡って僕に辿り着いて、お礼と称して新しいビジネスのパートナーになったら、どうか。
僕にとってクソ極まりない出来事が、ある意味大きな幸福のトリガーに変化する。
・・・ここまで考えてみて、皆様、どうだろうか。
めんどくせぇなぁ、と思わないだろうか。無駄なこと、しょうもないIFを、なぁにウダウダ考えてんだ、と。
僕も心底、そう思う。何が引き金となって、何を起こすのか、数学的にも無理な話だと分かっている手前、本当に考えるだけ無駄なのだ。
別に数通りの手を考えたり、ちょっと先の未来を考えたりすることは否定しない。むしろそれくらいの備えは、やって然るべきだと思う。
しかしそこから先の未来を想定するのは、徒労である。無限に発散する選択肢ひとつひとつを追うことはできないし、総数が分からないものをどう扱えばいい?
究極的な絶対なんてのは、いずれ待っている「死」くらいである。それ以外は予測できるわけがない。だから無駄だし、でも同時に、楽しいのではないか。
考えすぎは不毛だ。これは何も、哲学的な話でもなんでもない。考えすぎマンの僕がそう思うんだから、そうなのだろう。
では今日はこの辺で。