ニワトリ卵みたいな質問だが、「わかる」と「できる」では、どちらの方が優先順位が高いのだろうか。
塾のパンフを読むと、「わかる」から「できる!」とよく書いてあり、つまり「わかる」ことを前提としないと、「できる」にはたどり着けないというメタを感じる。
こう書きたくなる気持ちは理解できる。なぜなら、塾講師のウリはまず授業であり、そして成績向上なのだから。
そして成績向上には、ある程度の時間と演習量が必須となる。今は大事な「わかる」ための種まきをしているから、「できる」までもう少し掛かります。
それが前提にあると、なんと平穏に、そして計画的に、指導に当たれることか。塾人としては、やはりそう思う。
ただ、個人的には必ずしもそうではないと思う。僕にとっては、「わかる」と「できる」の間には、割と優先順位的な意味で優劣がある。
しかしそれは、時と場合によるよねという、あまり面白くない結論なんだけどね。
今日はそんなお話をば。
受験は、わかって➡できた方がいい。
僕は高校生の頃、参考書に【裏技!】という感じで載っている公式が好きで、意味も分からずそれを覚えては、問題を解けた気になって、うっとりしていた。
そして本番。あれほど恍惚とさせてくれた公式について、それを使う場面までたどり着くことなく、爆死してしまった。
特に数学において顕著だと思うのだが、公式とは、緻密なロジックや計算を組み立てて、一切矛盾が起こらないと確認した結果出てきたものなのである。
目次に貼り付けた問題は、学校の教科書の基本例題そのものなのだが、実はこれが屈指の良問として語り継がれるほどなのだという。
「わかる」とは、その知識や公式の周辺知識や根拠までひっくるめて”わかる”ことであり、これはつまり非常に知識が広範で、応用も利くという特徴がある。
私立大学の問題は知らないが、いわゆる共通テスト的な問題は、断片的な知識ばかり詰め込んだ受験生に用はないとばかりに、無茶苦茶広範囲の知識を同時に尋ねてくる。
「できるけどわからん」という脳筋解法で点を取れる気がしない手前、受験勉強においては、丁寧に「わかる」ものを作って増やし、維持することが大事だと思う。
日常生活は、できるならわからんでもいい。
そんな僕だが、日常生活においては、自分が「わかる」ことをあまり重視していない。全てのテーマにその問いをぶつけていたら、時間がいくらあっても足りないからだ。
例えばこないだ、家のPCの調子が滅茶苦茶悪くなった。数秒のフリーズが酷いときは2~3分に一回は発生し、無茶苦茶作業効率が落ちてしまうのだ。
こういうときは、そのまんまGoogle先生に尋ねればいい。「PC 数秒 固まる」というヒネリゼロのワードでも、答えが出てくるから便利である。
・・・・ここから興味が皆無の人には無駄な話を書くので、どうでも良ければサッと指で弾いて、しばらく飛ばしてくだサイヤ人。
さて。検索すると、「SSDがなんたらかんたら」という話が出てきたので、その記事に従ってタスクマネージャを起動し、ディスクの使用率を確認。
その記事で書かれていた不具合そのものが兆候として出ていたので、仮説として最有力だと納得し、素直に修復方法を実施した。
なぜかコマンドプロンプトにコマンドを入れてエンターを押しても、刹那に消え去るという反抗期だったので、Powershellを管理者権限で起動し、同じコマンドを入れる。
その後はとんでもなく長~いチェックが始まったので、放置したまま就寝。起きてみればチェックが完了し、不具合が発見されていて、同時に修復も成されていた。
ただその後も、以前ほどの酷さは無いが、立ち上げて10分くらいはプチフリーズがたま~に発生する状況が続いている。
これはもう、使っているPCの寿命なのではないかと、受け入れようかなと思っている・・・。
というところで何を伝えたいか。僕にとっては、SSDもPowershellもコマンドプロンプトが消えた理由も、いずれもどうでもいい。
鬱陶しいプチフリーズが何とかなることが最重要課題なのであり、それぞれの知識と論理のステップなど、マジで知るだけ時間の無駄なのだ。
もちろんこれら自体が面白い問いのテーマになることもあるのだが、やっぱり9割以上はどうでもいいのである。深める必要はない。
今は何をするかよりも、何をしないか、何を捨てるかの方が大事だとさえ言われるほど、モノも情報も価値観も経済も溢れている世の中だ。
受験を真面目に頑張った人たちほど、物事の根底や理屈を大事にするけれど、それもほどほどにしましょうねと、僕はそんなところに落ち着いている。
ということで今日はこの辺で。