最近、僕はよく「バイアス」と呼ばれる認知の歪みについて、自分なりに調べ続けている。
その中で、面白いものがある。正確な名前は忘れてしまったが、「他人は、理解されるべき自分を、十分に理解していないと思い込む」というバイアスだ。
恐らく、これは敵意帰属バイアスと呼ばれているものに近いと思うのだが、別の名前も付いていたと思う。ただ、それについては、今はどうでもいい。
この他人は自分の状況を理解しているはずだと思い込むバイアスは、僕自身にももちろん強く影響を及ぼしている。これが原因で不利益を感じることもある。
実際、周りの人々が私を理解していると思うことは、人並かそれ以上に少ないと感じている気がする。
むしろ、僕のことを理解していないとか、嫌がるようなことを狙って言ったりする人が多いとさえ感じている。ここだけ切り取ればちょっと病気なのだが・・。
それは健全ではない。だから最近、この現象の原因を、色々と考えるようになった。なぜ僕は、他人からの理解が”乏しいと思ってしまう”のか。
そして至った1つの仮説。それは、僕自身の情報発信が不足しているのではないか、というものだ。
そして、この罠は、もちろん僕固有の事情なんてことはなく、むしろ普遍的に多くの人が陥っている可能性があると思える。
ということで今日、ここに記事という形で共有する。
「自分のことを理解してくれる人は誰もいない」マウントを破らないと、ただめんどくさいだけの人じゃ。
自分のことを分かってもらえないと吹聴するのは、クソみたいな論理だとは思うけれど、自分に優位性を持たせる1つの方法ではあると認める。
しかし、言われた側は本当に困る。めんどくさいとしか思わない。そんなことを言う人のパーソナリティを推測しようと頑張るくらいなら、関わらない方がラクだ。
仮に少しくらい理解してやろうと思っても、その人の人となりを知る材料が圧倒的に少なければ、こちらとしても推測を多分に含んでしまうことがある。
となれば、その人の本質を理解することは叶わない。他人は自分のことを分かってくれないと”本気で”嘆く人は、僕含め、やはり発信が足りていないのではないか。
例えば、高校受験の小説の問題でも、たまにやたら難しい設問がある。その理由は大抵、その人の気持ちを推測するヒントがあまりにも少ないためだ。
それと同じことをされれば当然苛立つのに、かくいう自分は、他人に同じことをしているのではないか。
そんなという目線で立ち止まって考えてみると、そういう部分は、なきにしもあらずだと思うのだ。
ただ、自覚さえすれば、それを克服する方法は割と簡単だ。自分とはこういう人間だという情報をたくさん提供してあげればいいのではと、そんな仮説を立てている。
黙して語らずとも自分のことをわかってもらえるなんて、都合のいい絵空事だ。幻想だと言ってもいい。そんなことは、自分で冷静に考えればわかる。
ただ、対人関係ではなかなかそうもいかない、と。だから難しいし、悩むわけで。
しかしながら世の中には、人とスムースに共感し合えたり、隠された個性の部分へなめらかに踏み込めたりする人は、一定数いる。
では、この人たちは何をしているのか。共通点を探してみると、2つ思い当たった。これもせっかくなので、紹介する。
まず1つ目は、この言葉は好きじゃないのだが、自己顕示欲が強いという表現がしっくり来ている。
自分とは何者か。これをたくさん発信しデータベース化できている人は基本的に、他の人よりも誤解される頻度がやはり少ない。
そしてもう1つは、他人の人となりを知ることに興味がある、というものである。
確か【論破力】に書いてあった話だが、まず自分が今から議論しようとしてる人はどんな人なのかを把握するため、質問のボールをたくさん投げるという。
それにより、その人の思考や個性をモデル化するそうだ。議論の際に用いるテクニックは、そのモデルに合わせてカスタムするという。なんという高等テクだろう。
ここまで考えれば、理解してもらうにもやはり、能動的な努力がいることがよくわかる。一を聞いて十を知ることを美徳にするにも、やはり限界がある。
同じ比率であっても、0.1しか発信していなければ、1しか理解してもらえないのだ。この当たり前の事実は、やはりちゃんと認識しておきたいものである。
こんな風に、自分がちゃんと周りの人に理解してもらえるくらいヒントを示せているか、言葉にできているか、発信できているかをしっかりと見る。これが要だ。
これが不足していれば、もちろん僕自身もそうだし、僕と関わる人たちにとっても、無用なストレスがただただ溜まっていくだけなのだろうなと感じている。
ただ、露骨にひたすら発信してもただのナルシストなので、その辺りの線引きは慎重に取りたいところである。
では、今日はこの辺で。