理科の授業で一番心に残った思い出は何だろう。冷静に思い返してみたが、それは意外と、周期表を丁寧に覚えていたあの頃なのかもしれない。
よくわかりもしないし、蝕知もできない謎のつぶつぶ。それが教科書の見開きに、フルカラーで載せられている。何かのカタログを見るように、面白かったのを覚えている。
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得てして、学校で習う化学は面白くないと、生徒から言われる。それ自体には、僕自身すごく同意する。molとは何なのかとか、全くわからないし、興味も無いからだ。
しかし、そこにハーモニーなるものを感じ、探求心を掻き立てられる者もいる。それもまた事実だ。
何が面白いのか。この本はそれを丁寧に説いてくれている。たとえ共感できずとも、その熱意だけは伝わる。それでいいかと思っている。
そんなアトムの領域、今週も読んでいこう。
- 9月25日(月) 刹那の中の刹那。
- 9月26日(火) 全部理解できるボタン。
- 9月27日(水) 世界の果てはあるのか?
- 9月28日(木) 論理・直感・疑問
- 9月29日(金) 「科学の沼へようこそ」
- 9月30日(土) ラプラスの夢が散るとき
- 10月1日(土) 光とは何か
9月25日(月) 刹那の中の刹那。
ゾウよりもネズミの方が早く死ぬ。ネズミよりもクマムシの方が早く死ぬ。生物の話を化学に当てはめるのも微妙だが、得てして小さいものの方が、寿命は短い。
それは物質も同じだ。特に原子の中の世界だと、10の-10何乗とか、たまに出てくる。時間軸が違い過ぎて、想像することさえ不可能な領域だと思える。
ある科学者は、「ミクロの世界になればなるほど時間は短くなり、そこを突き止める科学力は日進月歩で成長している」と語る。
しかし、「その世界を垣間見て、そこに隠された法則を突き止めようとする頃には、多分死んでますね」と笑いながら語ってもいたそうだ。
いつまでたっても探求に終わりはない。誰しもがバトンを託す側だし、託される側なのだ。そんなちょっぴり物悲しいことを、ふと考えてしまった。
9月26日(火) 全部理解できるボタン。
ある科学者に筆者が問うた質問が面白い。それは、「全てが理解できるボタンがあったら押す?」というものだ。
そしてそう聞かれた科学者は、「押さない」と答えた。その理由は、「科学の面白さは悪戦苦闘する途上にあって、結果ではないから」というものだった。
これ自体は、ド文系の僕でも共感を覚える。結果を出すための努力のはずなのに、その部分の方が面白いという不思議さ。
思えばドラゴンクエストだって、ボスとの戦闘時間より、フィールドを旅してレベルを上げている時間の方が、圧倒的に長く濃密である。
プロセスも面白いと思えれば、つまり全て面白いと思えるようになるので、まさに無敵の思考ではないかと思わされる。
ちなみに先の研究者は、「イタリア語が秒速で習得できるボタンだったら押す」らしい。
つまり無条件で追求するのではなく、自分が強く興味を持つことならば、その水面下の知識や経験ごと知りたい、ということなのだろう。
その部分にもまた、僕は強く共感する。
9月27日(水) 世界の果てはあるのか?
物質を構成する最小単位はどこまで行くのか。クォークはさらに分割できるのか。となれば、この世を構成する最も小さいものは、一体何なのか。
或いは、クォークで終わりなのだろうか。いずれのルートにしても、時間が全く足りない。僕が生きている間に見れる気がしない。科学ってそんなもんなのかもしれないが。
宇宙の果てはあるのかないのかを考えるのは、極めてマクロ過ぎる問題であり、もはや哲学や神学の領域にあるのでは、とさえ思える。
だが同じくらい、最も小さいものを探し続けるのもまた、神の御業と言うべき何かを感じてしまう。どちらの果てにも、神がいるということか。
或いは、神の御業と言うしかないのはあくまで現状と言うだけであり、いずれ人類の英知は、そこに届くのだろうか。
いずれにしても、それは次の世代の話だと思う。あの世からそれを、ライブモニタで見られるだろうか。そこだけちょっと気がかりである。
9月28日(木) 論理・直感・疑問
世界の果てとは何か。もっと言うと、世界の最小単位とは何か。例えばある1つの粒がそうだとして、それがさらに分割できないと、どうすれば証明ができるのか。
難解な理論と直感、子供でも抱きそうな疑問がごちゃごちゃに混ざり合う果てには、やはりどうしても、無限なりカオスなりフラクタルなりが姿をもたげてくる。
自然界はある程度まで数式で記述できるが、閾値を超えると全てはカオスに突っ込んでいくのだろうか。もしそうだとしたら、物理や数学の端とは、かなり曖昧になる。
そう考えながら読んでいくと、この原子の章が終わり、次のチャプターへ移った。そのタイトルは、【Quantum Phisics】。もう、既に、くらくらしている。
9月29日(金) 「科学の沼へようこそ」
量子力学という新たな分野の端緒を切り開いた人たちは、その不可思議すぎる法則に、皆が頭を抱えたらしい。
あのアインシュタインでさえ、そこにおぞましい何かを感じ取っているかのようなコメントを残していることから、その奇天烈さは群を抜いているということなのだろう。
その量子力学において先進的な研究をしたのは誰か。正確には量子電磁力学という、もっとわけわかめな分野なのだが、リチャード・ファインマン氏らしい。
そんな彼が、こんな感じの言葉を残している。科学の沼にハマる人たちの心理が、すごく端的に表されているように思えてならない。
「世界の在り方をみて、その規則性や現象に、ある種の美しさを感じたとする。だから、もっと知りたいと思う。そこまではいい。
だが、『世界はどうして僕らが目にしている通りになっているんだろう?』と思ったら最後、誰も出てきたことのない底なしの沼へ、お前は嵌っていくことになるんだ」
9月30日(土) ラプラスの夢が散るとき
シモン・ラプラスは、この世を精巧な時計仕掛けの組み合わせだと評した。必ずその裏には精緻な物理法則が隠されており、僕たちはそれを知らないだけなのだ、と。
しかしその夢も、量子の摩訶不思議な振る舞いが明らかになるにつれて、儚く崩れ去っていくかのようだ。
世界は精巧な時計仕掛けのように見えて、その実はミクロの集積による、完全なランダム性に支配されている。
このことを面白いと取るか、それとも化学の敗北と取るか。いずれにせよ、答えが出る前に、僕はラプラスのいる側の世界の住人になるんだろうと、そこは諦めている。
10月1日(土) 光とは何か
粒であり波である。これはどういうことなのだろう。とりあえず本来あり得ない2つの性質が併記されていることは何となくわかった。
これは何かというと、光の性質だ。確かに、光とは不思議だ。猛烈な速度で進むなにかなのだが、それが僕らに衝突しても、僕らは別に吹き飛ばない。
だからその性質を突き止めるため、多くの科学者が数多の実験を行い、都度「わけわからねぇ」という性質を発見していったのだった。
光とは何か。これは神から特殊な才能を与えられた人は理解している問いかもしれないが、それを与えられていない僕は、未来永劫理解できそうにないとも思えてくる。
―ということで今日はこの辺で。