精神年齢9歳講師のブログ

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【英文読書ルーティン日記142】"THE GREAT UNKNOWN"読書感想ブログⅤ ~なぁぜなぁぜ、の果て~

この本をここまで読んで段々疑問に感じてきたのだが、もしかしてこの調子でずっとカオス理論の話が続くのだろうか?

 

もちろんカオス理論についての話は結構面白いから、読んでいて飽きないし、学びも多いと感じている。だが、それならタイトルはそうなっているはずではないか、と。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

もちろんこの本の大部分はまだ手付かずだし、事前情報も一切入れずに読むつもりだから、この不安があるからといって調べる気はない。

 

本来わからないことを学んでいけば、わかること以上にわからないことが増えていくはずだ。それ自体が楽しいステップではないか。

 

そう割り切って、今週も偉大なる謎について読んでいきましょう。

 

 

9月4日(月) ダイナミクスが予想できるという矛盾。

 

サイコロの挙動が完全に予測不可能、いわばカオス的な状態になるのは、ある種の条件があるという。それは、エネルギーが”少ない”ことだそうだ。

 

例えば高さが無いとか、机が柔らかいとかで、コロコロ転がるのに必要なエネルギーが不足していると、その挙動を図示したそれは、カオスのそれを示すものになるという。

 

一方、十分な高さから落とし、ダイナミックな動作をするように条件付けすると、その結果はカオスと言うより、どこか規則的なものになるようなのだ。

 

ダイナミックなものの方が、まだ予想できるという矛盾。また一つ面白い話を知った瞬間だった。

 

9月5日(火) 数学はカオスの前に無力なのか?

 

カオス理論は、初期の数値の違いが大きな結末の変化を生むという意味で、決定論のはずなのに、それに辿り着くことが実質不可能だという話だ。

 

ゆえに神の御業という表現がしっくり来てしまうのだが、それはつまり、カオスの前では数学は無力という話なのだろうか

 

実はそれも早計であり、大抵の出来事はカオス的ではないがため数学は十分通用するし、カオスも程度によっては、ある程度見通せるところまできているようだ。

 

天気予報も100%の的中率にはならないが、日常生活に困らない程度の的中率は十分に担保されている。そしてそれで満足だともいえる。

 

数学はカオスの前に、敵わない余白が残っている。そこは今はまだ神の仕事だが、それが学問に取って代わる日は、いずれやってくるのだろうか。

 

9月6日(水) 我々の既知の範疇は、無知に比べれば取るに足らない程小さい。

 

カオス理論の章が終わりに近づいてきた。

 

「時にはカオス的な挙動のせいで予測不能のこともあるけど、他の隕石への着陸みたいな計算はできるから、実用的さ」と割り切るのが妥当という風にまとまっている。

 

数学はカオスに完敗したわけではなく、自分たちの現在地や、どのルートを選び取ったかと言った部分がわかれば、カオスに打ち克ち、予想が可能になるのだという。

 

しかし、カオスを取り巻く話は、シモン・ラプラスという科学者の以下の発言(最後の言葉ともいわれる)を読むと、その本質が浮き彫りになる気がする。

 

What we know is not much. What we do not know is immense.

 

既知の領域の広さはさほどでもない。しかし、無知の領域の広さは計り知れない。

 

わかる、わからないを通り越して、そもそも知らないとか感知できないもの。これを絶望と取るか、遊び道具が無限にあると考えるかで、性格が出るような気がしている。

 

9月7日(木) マイクロの世界を突き詰める。

 

子どもの頃に一度は夢想したこと。カオスの次は、そんな話から始まる。

 

僕は一、十、百、千、万・・・という数の単位を、授業そっちのけで暗記し、不可思議、無量大数まで一応覚えている。

 

ただ不思議なことに、小さい数の単位には興味が持てず、そちらは実は一つも覚えていない。カオスの次は、まさにその、小さい物体の話なのだ。

 

例えば、目の前にある紙を拡大すると、繊維が見える。繊維をさらに拡大すると、さらに細かい繊維が見える。さらに細かい繊維をさらに拡大すると、粒粒になる。

 

粒粒とは原子の世界。ミクロの極みだ。そこで僕は、こんなことを考えた。原子をさらに拡大すると、そこに何があるんだ、と。

 

つまり、最小とは何か、だ。これはこれで心が躍るテーマだが、物理学の中でも大変そうな分野ゆえに、ついていけるか割と不安である。

 

9月8日(金) 分割・分割・分割。

 

全ての物事は、目に見える物からさらに細かく分割できる。そのことは、ピタゴラスの時代には既に信じられていたことらしい。

 

彼は、鍛冶屋が鉄を叩く音が調和するときとしないときの音階のパターンを見て、”調和”するときは、”綺麗な”分数で表現できることに気が付いたとされる。

 

宇宙は全て数で支配されている。実際にこれを教義とする教団を設立したというから、その信念は本物だ。

 

大きな物は、より細かいものに分割できる。分数を考え付いたのなら、それに行きついても自然だとは思える。

 

例えば富士山に登ると、巨大な岩がゴロゴロしているのに気づく。その岩もまた、少し叩いて割れば、細かい石や粒でできていると気付く。ではそれを、さらに割れば?

 

純粋な子どもであればまず間違いなく抱く、根幹の疑問。しかし、ロマン溢れる無限が絡むと、真理を掴むのはほぼ無理ゲーになるというのは、やはり一つの魅力だと思う。

 

9月9日(土) 常識に反する予測への反応は、歴史を問わず同じである。

 

物事を分けていくと、そこにはさらに細かい単位があることに、古代の哲学者(数学者)の一部は、どうやら気が付いていたらしい。

 

例えば水を細かく細かく分けていくと、そこには幾何学的に秩序立った多面体のような物体になるのではと、そう考える人の話が書かれている

 

とはいえ、その予測は、直感とあまりにも反している。炎を例に挙げれば、それは目に見えているものが全てであり、そこからさらに分割可能など、あまりにも不可思議だ。

 

だからその論はほぼ嘲笑されて、歴史の中に葬られてしまったらしい。なんとなく、天動説と地動説を巡る論争に似ていると思った。

 

常識に反するような先進的な予測は、一度葬られて、その後に不死鳥の如く蘇るのが、その本来の性質、もとい定めなのかもしれない。

 

9月10日(日) 無理数は美しくない、のか。

 

無理数という言葉がよくわからなかった。今でもよくわからない。単純な分数の比で表すことができない数だったかなぁ。

 

例えばπ。或いは√2もそうか。これらを展開すると、無茶苦茶な数がずらずらと並ぶことになる。

 

ちなみに√2の発見は、ピタゴラスの定理そのものに由来するという。例えば斜辺以外の2辺の長さが「1」の直角三角形を考えよう。

 

このとき、斜辺の長さはどうなるか。今でこそ√2と答えればいいのだが、その概念が無かった人は、非常に頭を抱えたようである。

 

ここで、無理数の存在が浮かび上がってくる。当初ピタゴラスは、数という美しい秩序を破壊する無理数という存在を認めず、ひた隠しにしようとしたそうだ。

 

しかしその禁を破り、無理数を広めた弟子がいた。だからピタゴラスは、その報いとばかりに、彼を海に沈めて殺してしまった。そんな伝説もある。

 

ある意味タブーのような数値、無理数。確かに考えれば考えるほど、僕らのスケールに当てはめて理解しようとするのは無理がある数だと、そう思えてきた。

 

―ということで今日はこの辺で。

 

 

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