精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「実際に被害を食らうこと」は、「被害を食らう妄想」より、全然痛くない。だからこそ厄介だ!

さっき気付いたのだが、僕が職場の机上で保管していた現金が、盗まれていた。しかも狡猾なことに、封筒はそのままで、中身だけ丁寧に盗られていたのだ。

 

平和なこの日本で、「大丈夫だろう」と思っていた場所で、現金を奪うという犯罪行為が自分事として起きるとは。ショックを通り越して、なんなら感動すら覚える。


・・・そういえば、以前も似たようなことがあった。僕がなにかしらの形で受け取った現金が、こっちは封筒ごと消えたのだ。

 

ただしこのときは、それを仕舞っていた棚の書類を、一通りシュレッダーに放り込んだ後に気付いた出来事だ。

 

そのため、「俺は紙幣をシュレッダーしてもうたのか!!」と、好意を粉砕した自分に対し、ガチ凹みしていたわけで。

 

しかし今なら思う。多分それも窃盗の被害に遭っている。それはつまり、僕のいる付近を”職場”にしているヤツがいることの、動かぬ証拠だ。

 

犯人捜しをすべきか?しかし証拠の一切が無いし、心当たりも無い。いや、とりあえず報告が先か。色んなことが頭を駆け巡ったが、冷静になって、ふと気づいた。

 

大袈裟に言えば、僕は犯罪の被害者になったわけだが、それに対する自分の反応が驚くほど冷静なのだ。

 

何ならもうパッと諦めて、己の無防備さを反省し、対応策を考えるという次の境地に、自然と至れている。

 

これは単に正常バイアスが働いているだけの可能性もあるが、裏にもっと身も蓋も無い真理があるということなのではないか。すなわち、実際の被害は妄想に劣るのでは。

 

今日はそんなことをテーマに、記事を書いていこうと思う。

 

 

未知が盛りに盛る恐怖。


基本的に、自分がまだやったことが無い、受けたことが無い経験については、想像を膨らませるしかない。だがその想像には、不安による恐怖がたっぷりと添加される

 

自分の中に経験値が無いというただそれだけで、あらゆる物事は恐ろしさを増していく。例えば人から露骨に嫌われるのは恐ろしいと、大体の人が思うのではないか。

 

しかし実際に露骨に嫌われるケースを食らってみて思うのだが、それでも僕は幸せだし、ご飯はおいしいし、給料も貰えているのだ。つまり、何も変わらない

 

妄想によって膨らんだ恐怖に打ち克つつもりで相対した、と言えば大仰だが、そのくらいの覚悟をもって現実にぶつかると、本当にその1/10も手応えが無い

 

僕は人から殴られたこともある。だが、机の角に小指をぶつける方が、ダメージが多いような気もしている。

 

僕はある程度のグループから総スカンを食らった時期もある。だが、他にも友達はいたし、別に楽しい時間だったという記憶もある。

 

未知の恐怖を現実が上回ったことは、そもそもあるのだろうか。僕自身の記憶に手を突っ込んで探してみたが、そんな心当たりはどこにも見つかっていないように思う。

 

もちろん今回は実際に金銭を盗まれるという実害があるし、味をしめた手癖の悪い生徒がいることも分かったし、という事情があるので、無視はできない。

 

だが積極的に仕返そうという報復心も無ければ、己の無力を呪いたいという自責心も一切湧いてこない。ただ淡々と、「こんなもんか」と拍子抜けしている。

 

・・・しかし、現実によるメンタルへの影響が妄想を下回るということには、リスクも存在する。続いてはそれについて触れておく次第である。

 

「まあええか」→「全然良くない」

 

冒頭でも触れたが、正常性バイアスという認知の歪みがある。心の平静を保つため、有事の際も「大丈夫だ」と思い込んで、特に行動を起こさないという思考を指す。

 

悲しい話だが、災害時に避難せず、巻き込まれて亡くなる人たちは、このバイアスによって行動を妨げられているという説も存在する。それくらい強いバグなのだ。

 

もちろん冷静さを保つことは大切ではあるが、それによって行動の一切をしなくなるのはとてもマズいと思う。

 

例えば僕が「まぁええか」とこの状況を放任すれば、下手すれば次に盗まれるのは、サイフ丸ごとかもしれないし、塾の機密情報かもしれないのだ。

 

だから今回みたく、自分が実害を食らっているのに何故か穏やかなときは、第三者視点で現状を眺めて、質問を入れるようにしている。

 

具体的には、「今のお前の状況を、まぁいいかと友人が言っていたら、本当にお前は同意するか?」といった自問がそう。もちろん答えは、「ノー」だ

 

貴重品を置かないことは勿論、では貴重品はどこに保存するかを考えるとか、書類の保存を厳格にする方法は何か無いかを調べるとか、そういう行動が要るだろう。

 

あるいは「ガサを入れた」際はすぐに突き止められるよう、デスノートのシャーペンの芯みたいなトリックを考えておくのも良さそうだ。

 

―ということで本来、正常性バイアスは、冷静な視点での分析と、それによる施策の考案がセットで初めて、有益に機能する認知の仕組みなのだ。

 

そこは履き違えないようにしたいと、僕は思う。再犯防止には努めます。被害者も加害者も生まないようにしないとな。

 

では今日はこの辺で。

 

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