精読と多読、どちらに取り組むべきか。これはぶっちゃけその人のレベルなり好き嫌いなりでどうとでもしてほしいのだが、個人的には両方要ると考えている。
特に最近は、多読をすることで恩恵を受ける場面が増えてきたと感じる。具体的には、腑に落ちていなかった教えが急に理解できたり、教えと教えが繋がったりするのだ。

その瞬間はもはや快楽・快感と呼んでもいいくらい気持ちがイイ。狙って再現するのがかなり難しいだけに、僕はそれを得たくて読書しまくっていると言ってもいい程だ。
ということで今日は、全然体系立てられていない提案ではあるのだが、多読はイイゾっていうのをベースに、記事をゴリゴリ書いていく次第である。
同じテーマをいくつもの観点・経験・側面から理解する。

最近多読によって一番感じているのが、同じテーマを様々な観点・経験・側面から理解できる、というものだ。
言い換えれば、全然別物を説明していると思ったら、他の本で紹介されていた事柄と実は同じ、或いはかなり近いところを説いているという話が凄く多いのだ。
例えば【論理トレーニング101題】という本は、論理的に物事を読み取るためのトレーニングを積める本だが、それを”書く”ことに置き換えると、【論文の書き方】になる。
論理を使って”読む”か”書く”かという違いはあるが、それを扱うという意味では同じであり、色んな目線・方向で考えることで、理解はすごく立体的になっていく。
また、アスリートの人たちの言葉を読んでいくと、そこには基本的な心構えに多くの共通点が多いことに気が付く。
そしてその共通点は、アスリートというより、勝負の世界に身を置く人にとっての基本なのではないかと、例えば棋士、サッカー選手、ボディビルダーの本を読むと気付く。
多読によって、別々の教えに見えることが実は同じなのだという気づきを得ると、途端に全ての教えが一つの塊として自分の中に現れる。
頂点同士が線で繋がることで、巨大な立方体が突如出現するような感じだ。そして不思議なことに、これは難しい証明問題が突如解けたかのように、とても気持ちがイイ。
ゆくゆくはライプニッツが唱えたという【統合論】みたく、全ての学問はある一点に収束していくんじゃないか、ということさえ感じている。
ただしその感覚が得られる前に、僕は確実に骨になって地面に埋まっているんだろうなと、そこは諦めている。
ある本が別の本の翻訳になることもある。

名著と紹介されていたから買って読んだものの、その当時の僕には腑に落ちず、再読さえ放棄してた本がいくつもあるのだが、その意味が突然解ることも、多読の利点だ。
例えば、【観察力の鍛え方】という本を読んで以来、僕は抽象的な世界をしっかりと見つめることの意義や面白さが、腑に落ちて理解できたと感じている。
その視点を得て以来、改めて【大河の一滴】を読むと、スーッとその教えや考えが染み込んでくるように理解ができた。数年越しに、ようやく得られた感覚だ。
そこを皮切りに【運を支配する】、【大局観】なども違った目線から読めるようになったし、更に抽象世界自体を考えるのが好きになって、【仏教哲学】にも興味が湧いた。
元々仏教系の幼稚園に通っていたのだが、そのときは気付けなかった教えの平易さと深さがわかって、すごくワクワクする感覚さえ抱いている。
そんな現在は、【熟達論】を経て【最強の働き方】を読むことで、どこか手触り感の無かったヒントのあれこれが、「そういうことか!」と発見を伴い読み直せている。
ある一つの大著が、また別の大著の翻訳になる。又吉氏も言っていたが、「100冊ほど読むと、理解できなかった本がわかるときがある」とは、本当にそうなのだと思う。
終わりに:閾値を超えたら、成長は爆発する。
大学生の頃、読書量の一つの大きな目標として、何かのビジネス書には「120冊程度」というのが書かれていた。そこが閾値で、そこを超えれば成長は急激になる、と。
では僕は、累計で120冊に届いたのだろうか。冊数自体はここ数年落ち着いているのもの、毎年8~12冊くらい買っているし、学生の頃はもっと極端だった。
そう考えれば、120冊を突破したのはここ最近ではなかろうか。本当にそこを超えた時点から急に、読書の楽しさが一段と深く、広くなったのを感じる。
僕は一応どの本も必ず2周以上はするのだが、その上で多読を繰り返すことで、学びがネットワーク化する感覚を得られた。そしてそれは本当に快感だ。
それが少しでも伝わっていたら嬉しく思う。では今日はこの辺で。