【予測不能の時代】、【We are lonely, but not alone】、【リーダーの仮面】などを読んでいると、強い組織の特徴として、ある考え方が共通して登場する。
それはひっくるめれば、【安心・安全が保障されていること】だ。強い組織ほどこれが担保されており、メンバーにこれをしっかり感じてもらうのがリーダーの仕事だ、と。
響きや意味合いとしては大切なのだと納得するが、定義それ自体がかなり曖昧で、どこか禅問答のような感じさえする。だから、その意味はよくわからないままだった。
しかしここ最近毎度毎度登場しているような気がする、以下の本を読んで以来、【安心・安全を保障すること】は非常に大事なことなのだと強く納得している。
今日はそれを踏まえて何を学んで、現状どんなことに取り組んでいるか、手前味噌だが途中経過を報告してみたいと思う。
安心・安全が保障された状態とは?また、そうなると、どうなる?
安心・安全とは何か。まずここから調べてみたが、言葉が別々なことからも察されるが、確かにこれら2つの言葉には差異があるとわかった。
乱暴に言えば、安全とは「損害が無い状態であることが客観的にわかる状態」といった感じで、「そう思う」というより「そうである」というニュアンスを感じる。
そして安心とは、少し長くなるが、「自分が予測する範囲内で物事が起きると思えること。また、それを超えても受容できると信じられる状態」とあった。
ちなみに安心の対義語はやはり「不安」なのだが、これはつまり「何が起こるかわからない状態に注意が向いていること」だ。対義語まで見ると、すごくしっくりくる。
これら二つを統合すれば、こんな風になるだろうか。
【身体に危害が及ばないことが客観的に保障され、かつその内部で起こることが十分予想可能であり、かつ予想外のことでも対応できると確信できる状態】
こう考えれば、安心と安全はやはり別物であり、例えば安心だけど安全じゃない、安全じゃないけど安心できる、といったちぐはぐなことも起きうる、となる。
そこで働く人、通う生徒に危害が及ぶリスクを極力減らし、同時に「安心感」を抱かせていくことが、その場を預かるリーダーの仕事、ということか。
・・・となれば、今の僕の課題が一つ浮き彫りになる。それは、「安心とはなにか」に関しての解像度が、まだまだとてつもなく低いことである。
ということで引き続き、この項目をより深く、かつ具体的に、考えていきたいと思う。
安心・安全の対義語を潰そうとすると、自ずと行動が決まる説。
再掲っぽくなるが、安心の対義語は不安だ。そして安全の対義語は危険である。乱暴に言うなら、組織内にある不安と危険の芽を徹底的に摘めば、安心・安全に近づく。
この際、危険については一旦除外する。地震が起きたら本棚が倒壊するとか、コケたら頭を打つ何かがあるとかは、日頃から意識して出来る対策をしているからだ。
さて。不安を消すにはどうすればいいかについて、実は【リーダーの仮面】や【予測不能な時代】等で、既に何度も指摘されていることがある。
それは、線引きをはっきりさせることと、チーム内でコミュニケーションを生むことである。これに取り組むことで、不安が減り、同時に安心感が高まってくる、と。
そもそも不安という感情をプルチックの感情の輪から考えると、【警戒と関心の混合感情】と捉え直すことができる。いわば、ネガティブをもって注目している状態である。
そして人は何を警戒するのかというと、自分が知らない存在についてだ。暗い場所を人が怖がるのは、何がそこに潜んでいるかが全くわからないから、という話もある。
誰が何を考えているか、その人が何を信じているか、そもそも誰がここで働いているのかといったあれこれが不明である状況は、とにかくストレスフルなのだ。
そして不明瞭がストレスであることは、組織内のルールにも密接に繋がってくる。担当は誰か。裁量はどこまであるのか。責任の所在はどこか。
曖昧であればあるほど、人は萎縮し、活発さが失われる。それはつまり、コミュニケーションを始めとする有機的なつながりが失われることに等しい。
”わからない”があればあるほど、不安が募る。不安と安心は完全に反比例するからこそ、「わからない」を潰すことが、つまり安心を生み出す第一歩なのだ。
不健全な未知を極限まで減らし、悩みも学びも全てがネットワーク状に繋がって共有された状態であれば、「安心」が達成されているとみていいだろう。
自分が何をすればいいかは未だに曖昧模糊としているが、しかし今までよりは幾分クリアに、心構え自体を作ることはできたのかなと感じている。
終わりに:株式会社コルクの社訓の深さを実感中。
【逆転の仕事論】を読んで以来、佐渡島庸平氏の著書を読むようになった。noteも毎週楽しみにしており、ヒヨッコ極まり無いが、影響は結構受けている。
彼が代表を務める「株式会社コルク」なのだが、そのバリューの深さを最近、まざまざと実感しつつある。
やりすぎる、さらけだす、まきこむ
「やりすぎる」ことについてはまだピンとこないことも多いのだが、「さらけだす」「まきこむ」こそ、特に安心に繋がる大切な要素ではないかと感じるのだ。
人は他者や外部世界と”つながっている”という感覚を得たとき、腹側迷走神経が優位になって、安心・安全を感じ、心の底からリラックスできるようになるのだという。
これはアドラー心理学の根幹たる「共同体感覚」にも繋がるのだが、その感覚を得るには、自分から積極的に関わりを持とうとすることが大事なのだそうだ。
誰かが自分を”まきこんでくれる”のを待つのではなく、自分にできる形で、自分ひとりより大きな環境に働きかけることで、”つながり”を得る。
”つながり”≒安心・安全という式が立つのなら、僕がまずやるべきことはすごく単純なものに落ち着く。それは僕自身が”さらけだす”ことだ。
具体的には、「こうしてほしい」と伝えたり、「困っている」からと頼ったり。そう、今まで僕が徹底的に苦手としていたあれこれである。
独りで抱え込むこと、頑張ることを止める。独りでしかできない仕事を手放す。みんなで頑張ることが、安心・安全の第一歩。ついにドミノの一枚目に辿り着いたようだ。
まずは”僕が””さらけだして””まきこんでいく”。気付くまでに1年以上掛かったが、僕一人が頑張ることはむしろ、安心・安全ではなく分断を押し進めてしまうのだ。
そういえば株式会社コルクの風景を描いた漫画で、「あぁ、すごくいいなぁ」と思うものがある。それがこれだ。
業務時間中ずっとこうなっている必要はないと思うのだが、こういうがやがやした時間をもっと僕が作っていけたらな、と思う。今は逆に、引き締め過ぎの気もする。
【長】としてどう在るべきか。今のところ、「安心を生むためにさらけだせる人であること」かなぁと、これを暫定解としてしばらく頑張ってみようと思う。
では今日はこの辺で。