最近、リラックスとかくつろぎという言葉について、あれこれ思い巡らせることが増えてきた。それは、僕の中に一石を投じるような教えを知ったからだ。
その教え曰く、「自分が本当に安心・安全を感じられる環境に身を置いていると、心の底からリラックスできる」というものだ。そしてこれこそが、真の休息なのだ、と。
では、「自分が心の底から安心・安全を感じられる環境」とは、一体何なのか。実はここを突き止めるのが結構難しく、常識と体感の乖離を一番感じる点だったりする。
先に言うと、僕自身、その答えを何か見つけているわけではない。いわばアンラーンの途上で、一旦自分の常識を壊すところにいる、という感じだ。
そんな段階ではあるが、今日は「本当に”くつろげる場所”」を探すために色々考えてきたことを一旦棚卸して、軽く整理整頓してみるという記事である。
常識的なくつろぎは、本当にあなたに合っているのか?
まずは「relax」という単語が、一体何を意味するのか確認するところから始めよう。それで画像検索をかけてみると、「relax」の一例がたくさんイメージとしてヒットする。
コーヒーを飲んで窓の外を眺める。夕日が照らす浜辺に石を積む。ソファで微笑みながら横になる。ハンモックに横たわって揺れる。等々。
確かにどれもこれも、くつろぎについて絵を描いてとAIに打ち込めば、出てきそうな場面ばかりである。だがここで、少し疑問を挟んでみたい。
その状況下に自分があると仮定したら、自分は安心・安全を感じられるだろうか?
ここがなかなか厄介だ。例えばコーヒーを飲むのは確かに落ち着くが、窓の外を見ていると、逆に外からも見られそうで、僕はどこか落ち着かなさを覚える。
またハンモックに横になるのも、そんなことをしている自分を見られたらなんか気恥ずかしいなという自意識が邪魔をして、結果くつろげないような気がどうしてもする。
これは母数1の捻くれた解釈ともいえるが、世間一般で言われる”くつろぎ”は、必ずしも自分に合致するとは言えないという一つの例ではないだろうか。
温泉で過ごせば落ち着く。友達とパーティに興じれば落ち着く。確かにそれはオフの時間の過ごし方ではあるが、それで安心・安全を感じられるかは話が別なのだ。
自分がそういった感情を抱けているかという観点は、実は今まで持ったことが無かった。ただ何となく、くつろげると言われることを、深く考えずやっていただけなのだ。
となれば話は簡単だ。自分が安心・安全を感じられるときの記憶を思い出して、それを一つにまとめて、自分なりのオフの過ごし方を確立すればいい。
しかしこれはまさに、言うは易く、行うは難し。記憶の中からそれを引っ張り出すのは、実際とても難しい。続いては、それについての持論を書いてみる。
「安心・安全」を感じているときは、頭を使っていない。
人が心底リラックスできているときは、いい意味で気持ちが徹底的に緩んでいる。敵のいない場所。脅威が存在しない場所。それはつまり、何にも注意しなくていいのだ。
少し毛色が違うのだが、これは緩やかな没我ではないかと僕は感じている。自分という輪郭が無くなり、安心・安全を感じられる環境と一体化するような感覚だ。
ゾーンに入ったアスリートがその体験を言語化するのが困難なように、真のリラックスは、実は言語化することがとても難しいと思っている。
だから後から思い出そうにも、記憶のフックが一切引っ掛からない。大体はその前後の記憶が限界で、どうにもヤキモキさせられてしまう。
一応、ヒントになる考え方はある。安心・安全という感覚のトリガーは、「つながり」にあるそうだ。ということは、自分が心許せる何かと”つながる”ことが必須となる。
面白いのだが、ここで言う「つながり」は、特定の個人限定ではない。例えば本という媒体を通じてフィクションの世界と繋がるのも、一つの大きな”つながり”だ。
特に早熟型の人に多いのだが、周りの人と価値観や感覚が合わないことから、芸術作品や文学作品を手に取って、「自分と同じことを考える人がいた!」と喜ぶこともある。
それをさらに膨らまし、あらゆる境目を無くしていくと、アドラーの提唱する【共同体感覚】へと至るとされる。これは究極の”つながり合い”なのかもしれない。
少し脱線したが、安心・安全であるとはつまり、一切の警戒心が要らないという緩やかな没我のモードに近い。だからこそ、思い出すことが困難なのだ。
くつろぎを再現するために必要なピースは、どこまでいっても曖昧模糊というのは、ちょっと面白くもあるが、なんかタチが悪い話だとも感じられてしまう。
終わりに:最近時間が圧縮されたように感じたときはいつ?
そんな没我に近いという感覚が、実はヒントになると気付いた今、僕は「あっという間だったなぁ」という感想を抱いた思い出を、暇なときに反芻している。
直近だと、何人かでグループキャンプを満喫した「馬島」での1泊2日が、それに該当する。瀬戸内海に浮かぶこの島は、どうぶつの森みたいなのどかさであった。
誇張抜きで、ここで過ごしたのは24時間以上あるはずなのに、まるで1時間くらいに圧縮されたかのように一瞬で時間が過ぎていった。
それでいて、「とても楽しかった!」という満足感が確かにあって、その時間はいい意味であまり思い出せないのに、不思議と気持ちが高揚する感じを未だに覚えている。
時間が圧縮されたように過ぎ去って、かつそれが、とても楽しかったと納得できる記憶。何もイベントに限定する必要はない。それは日常にも多々存在するはずだ。
それらを取っ掛かりにすることで、僕は自分が真の意味で安心・安全を感じられるポイントを見つけられるかもしれない。見つけられれば、それを生活に組み込むだけだ。
32歳を過ぎて半年以上経過したが、まだまだ僕は僕のことを分かっていないんだなと、好奇心が発揮できる余白があることをすごく嬉しく思っている。
では今日はこの辺で。