得意な人がこの世にいることの方が信じられないくらいなのだが、僕は人を頼ることがこの上なく苦手だ。もっと言えば、仕事を依頼することに抵抗が凄く強い。
頭では、1人でできる仕事などたかが知れていると判っているし、人に(上手に)依頼をすることで、助け合いが生まれ、つながりと安心・安全を生むことも承知している。
それでいながら、僕はどうして人を頼れないのか。多分責任感が強すぎるんだろうとか、そんなところで自己分析を止めていたのだが・・・。
今日ふと思い立って、それを深めてみた。だが、内省が中途半端ゆえに言語化が難しく、「そうじゃないんだよねー」という事例が大量にヒットした。
それでも粘り強くヒントを探し続けていくと、「そういうことか!」という風にグサリと胸に刺さる考え方についに出会えた次第である。
ということで今日は、その発見に脳内で小躍りしつつ、つらつらと言語化を進めていこうと思う。
人に何かを頼る際に僕の脳内で起きる、面倒すぎる問答。
人に仕事を頼む際は、例外なく脳内で、クソめんどくさい問答が繰り広げられる。頭がおかしいと思われるかもしれないが、せっかくなので割愛せず言葉に起こす。
誰かに仕事を頼む際、僕はいつも後ろめたさを覚える。もっと言えば、自分にはその資格が無いような気が、実はずっとしているのだ。
何かを頼むということは、自分が自分のリソースを使い切ってもクリアできない困難ごとにぶち当たった際、初めて得られる権利のようなものだと感じている。
だからこそ、誰かに何かを頼みたいと思った際は、必ず問う。その条件を自分は達成したのか、と。例えば休日出社したり残業したりすれば、1人でもできないか、と。
正直、そこまで身を削れば、ぶっちゃけ大抵のことは1人でできなくもない。ただし激烈な精神・心身の疲労も伴うため、長期戦を全く想定していない行動になるが・・。
それでも、例えば僕が苦手とする科目の担当や、どうにもスケジュールが難しいときには、依頼をする。だがその際、僕の責任感が、また喧しく自分に尋ねてくる。
「それはお前が与えられた仕事から逃げているだけじゃないか?」「自分が嫌いってだけで、したくないから、その仕事を人に渡しているだけではないか?」という風に。
そんなになじられれば、誰だって嫌になる。そういうわけで僕は、人に仕事を依頼する前に、2~3個もの自分からのうるさい声に勝たねばならず、すごく億劫なのである。
頑張れば依頼しなくてもできるという実感。苦手な仕事から逃げている感覚。それらの抵抗・躊躇い・嫌悪こそが、僕が他者を頼る妨げとなっているようなのだ。
・・つくづく、これはとてつもなく感情的な話だ。下園壮太氏の提唱する3-7バランスでいうと、感情の方に全て割り振った、ある意味頑固で頑迷な思考である。
理性がいくら説得してもそれを解せないのは、妥協点が無いからだ。なるべく建設的でありながら健康的に、この感情論を理性と折衷させないと、永遠にキツいだけである。
そこまで至って袋小路に陥った際、あるnoteを読んで、僕は目が覚めるような衝撃を受けた。雷が落ちるという感じではなく、憑き物が取れたという方が近い。
続いてはそれについて書いていく。
仕事から逃げることと、アレを、混同することなかれ。
それはこのnoteだ。これを読んだとき、僕が喉に刺さった魚の小骨の如く違和感を覚えていた、「仕事を頼むのは、自分が仕事から逃げている感じ」のバグが判ったのだ。
そのバグとは、僕が責任という言葉の意味を取り間違えている、というものだ。もっと言えば、視座が組織の階層で言うと、一番下のままだったということである。
駆け出しの段階であれば、上から依頼された仕事を半端にしたり、ほっぽり出したりするのは論外だ。また、誰かと協力しないとできないほど難しいものは、基本無い。
その頃の正解は、自分一人でやり切ること。これだけだ。そして何も不自然ではないのだが、そうなると成功体験はすべて、ここに根差していくことになるだろう。
しかし立場が上がれば、そもそもチームを活発に機能させて、個人では無しえない成果を生むことが、リーダーとして果たすべき仕事・責任となってくる。
ステージが上がることは同時に、これまでの成功体験が、少なくともそのままでは通用しなくなるということでもある。そしてこれこそ、僕が嵌っていた罠そのものだ。
僕は自分の(勘違いした)責任を背負い過ぎて、結果というもっと大きなものから目を反らしている。これこそ、責任の放棄、そこからの逃避に他ならないではないか。
僕は目先の仕事から逃げないことによって、より大きな仕事から逃げている。それに気づいたとき、こめかみを物理的に殴られたかのように、くらくらした。
例えば、僕は子供が嫌いなのだが、それゆえに子供の扱いもヘタクソだ。だから僕より扱いが上手く、心理的抵抗が薄い人に依頼するのは、なんにも悪いことではない。
ただしこれを下っ端の観点から見つめれば、「逃げ」そのものだ。一方、視座を高めてからこれを見直すと、「適材適所」になるから面白い。
僕が人を頼る際に生じていた嫌悪感・抵抗感はすべて、役職とメンタルのズレから生じている。そう仮説立てると、本当に認知のバグがスッキリと説明ができる。
しかし、例えばスポーツにおいて、怪我の原因がわかることと、その箇所が治ることは話が別だ。前者はただの起点で、後者はそこからの話になる。
気付くことと修正していくことは話が別だ。だからこそさっきの下園壮太氏の7-3バランスのような捉え方が、ここでは大切になってくる。
1年経ってやっと気づく観察力の低さにはややがっかりする部分もあるが、気付いた以上、修正していくのが僕の責務。そう構え直して、また頑張っていこうと思う。
では今日はこの辺で。