「慢心」という言葉がある。簡単に言えば、「自分はできる側だ、知れた側だ」という風に思い込んで、メンタル的に思い切り油断することと言える。
例えば「井の中の蛙、大海を知らず」とか、「天狗の鼻」といった言葉で表現され、つまりよろしくないことの代表格として語られることが多い状態である。
大企業の凋落や、成功者の転落のきっかけはほぼ全て慢心であることから、その芽は早いうちに察知して摘み取れるようにしたい。できれば、自動的に。
しかし裏を返せば、大企業の重役や成功者であっても知らず知らずの間に陥るのが慢心というメンタリティということでもある。僕みたいなペーペーが、何とかできるのか?
そんなとき、たまたま目にしたショート動画で知った教えが、「はぁ、なるほど!」とすごく得心するような内容であり、こうして記事にしたいと思った次第である。
今日はそんなお話をば。
”できないこと、不慣れなこと”が日常にありますか?
それは乱暴に言えば、いつも新しく、不慣れなことに取り組む習慣をつけることである。要は、初心者・初学者と言えるものを日常に必ず1つは取り入れるということだ。
「自分だってできないことがある」「初めて学ぶとき、試行錯誤しているときは、こんなにももどかしくて苦しい」ということを思い出すのは困難だが、体験は実は楽だ。
例えば校舎に置いてあるので、ふと手に取って弾いてみたが、そろばんひとつとっても子供たちの速度の半分も出せていないように思える。
僕らは簡単に「7取って10足す」といったことを子供たちに言って、できるのが当然でできない、やりたがらないことを問題行動のように思うことさえある。
だが、自分が”できない側”に身を置くと、そういった言葉の無責任さ、腹立たしさが身に染みて理解できる。この「あいつらもこう思ってんのか」という感じは、超大事だ。
こういう風に自分から積極的に“降りていく”ことは、思い上がりと同義に当たる「慢心」をぶっ壊すのに、とても大事なことだと思う。
できること、慣れていること、得意なことだけで24時間を埋めるのではなく、いくらかはこういうチャレンジ枠に取っておくことを、これからは一層意識しようと思った。
その人の気持ちに”意識的に”なって考えることは、僕は無理だと思っている。
その人の気持ちになって考えろという教えがある。白状するが、これはあまり僕の中で腹落ち感がない。むしろ、どこか独善的だなと思うことさえある。
全く身に覚えがないこと、或いは思考回路として全く異なる言動を、僕は想像することができない。できるとしても、それは勘違いではないか。そういう感覚が拭えない。
例えば「江戸時代の人の気持ちになって考えろよ!」と言われたら、あなたはどう思われるだろうか。「わかるわけねーよ!」と答えるしか無いのではないか。
幕府という支配体制があり、帯刀した人間がそこかしこに居て、海外の情勢も分からず、連絡手段も手紙という時代。
そこに身を置いて戸惑う自分は想像できても、その価値観に生きる人の思考を再現することは不可能だろう。現代とあまりにも価値観が異なり過ぎるからだ。
では、そもそも他人の気持ちを想像することは、完全に不可能なのだろうか。実はそれも極論だ。材料と経験値次第で、近似値にはたどり着けると思っている。
先程の江戸時代の例も、その時代の人が遺した著作や手紙に触れることで、何に対してどう感じていたかという思想の一部を読み解くことはできる。
それが核となったうえでの気持ちの想像は、程度にもよるが的外れにはならないだろう。意識するだけで他者の感情とシンクロできるほど、僕らは同一ではないのだ。
僕らは普段、勉強に苦心する生徒を相手にする。しかし嫌味に聞こえるかもしれないが、中学の単元が解らなかった頃の自分は、もう跡形もないとも感じる。
だから別角度から経験値を手に入れて、近似値を狙う。そのためには、何らかの初心者に戻るのがやはり、一番手っ取り早くて確実だ。
苦労していると、大抵「教えたいだけ」のアドバイスに出会う。それは大抵わかりにくく、かつ猛烈にウザい。ではそれを、自分は生徒に言っていないだろうか。
逆に、わからないときに、原因とセットで、解決策のヒントや手段を紹介してくれるタイプの教材は、僕にとってはとても有難い。
こういった基本的部分は、こんな風に意識的に思い出す工夫をしないと、簡単に消えて、思い上がりに繋がっていく。
体験は想像に勝る。つくづくそう思う。
終わりに:【ぬるま湯】とはなにか。
「ぬるま湯」と形容される処し方がある。英語で言えば「コンフォートゾーン」だろうか。要は自分にとって快適な世界を指す言葉だ。
それはどちらかと言えばネガティブな話で、ラクな代わりに、一切の能力的・精神的成長が期待できない場所・状況を揶揄する表現だと僕は感じている。
そしてぬるま湯の世界にいる人ほど、不思議なもので、なんか傲慢だ。一方、いつも色んなことに挑戦するエネルギッシュな人ほど、なぜか謙虚だ。
この矛盾するような現実に違和感を覚えていたが、今回の気付きを踏まえるととてもスッキリする。要は、自然に慢心をぶっ壊すカラクリが組まれているということなのだ。
そして気づいた以上、僕は僕に問いたくて仕方がない。お前はぬるま湯に24時間浸かっていないか、と。そしてギクリとした。お山の大将になるのはごめんだと思った。
不慣れなことを祝福できる自分でありたい。では何から始めよう。候補が無限にある以上、その辺のネタには事欠かないのである。
では今日はこの辺で。