精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕のメタのめんどくささが、激務の中でよりクッキリと見えてきた。

相変わらず忙しい。娯楽を封印して、その時間を回してやっと、日頃の仕事がペイできている。心身の疲労は、回復できる数値より少しずつ多く、日々僕に圧し掛かる。

 

疲れてくると、主にメンタルに変化が起こり始める。イライラ、カリカリしてしまい、感情の小爆発が頻発する。いずれ手が出ないか、それが怖いほどだ。

 

荒んでいく人に、真っ先に労いをしてあげられるのは、他ならぬ自分自身のはずだ。仏教でもなんでも、そういう風な自分への慈悲の大切さがよく説かれている。

 

しかし疲労してくると、僕のメタはむしろ逆の声掛けをしてくるということに、最近気が付いた。だから疲労が抜けないのかと、諸悪の根源を知った気分だ。

 

今日はそんなメタのめんどくさい性質と、その原因の仮説を言葉にして、整理しておこうと思う。では以下、本題である。

 

 

僕のメタは決して味方ではない。

 

イライラしてしまったとき、その感情のままに行動すると、人は何を感じるか。それは大体、自責だ。罪悪感といってもいい。

 

言葉で冷静に対応する方法もあったはずなのに、それをしなかった自分が凄く情けなくなる。これ自体はある意味自然なプロセスであり、喧嘩あるあるの1つだと思う。

 

これ自体は、仕方ない。だからこそ、そういう判断をした自分を理解しつつ、今後どうすればいいかという地点にメタ認知で到達するのが、一番建設的だろう。

 

―だが疲れてくると、さっきも書いたが、僕のメタがさながらネットのアンチ共のような性質に変わり、しつこく僕に付き纏ってくるのを感じる。

 

感情的に怒ってしまった。だから反省をする。しかしそれだけでは僕のメタは満足しない。過去のキレた記憶を持ち出して、もっともっと自分を責めるよう強制する

 

過去の黒歴史をネットの掃きだめから掘り出してきて、時間差で蒸し返し、謝罪を強いるあの構図に物凄く似ている。疲労した時の僕のメタは、僕自身のアンチになるのだ。

 

疲れたから休むという判断をすると、「そんなんで休むとか甘すぎw」というウザいメタを感じる。そして、休むというその決断を、どうにも肯定しきれなくなる

 

その後に思った以上に状況や体調が好転しなかった際は、「ほれみろw」とこれまたアンチみたいなメタが湧いてくる。本当に五月蠅いなぁと思うが、抵抗する元気がない

 

何をしても、僕のメタが揚げ足を取ってきて、最終的な結論が「失敗か甘え」に書き換えられていく。多分ここには、持ち前の白黒思考も強くかかわっている気がする。

 

僕が思う理想的な働き方を100としたら、そこに届かない場合はすべて失敗。99点以下はすべて落第。疲労によって意識のコントロールが弱まると、そんな風になってくる。

 

僕のメタが、天使と悪魔の悪魔ですらなく、有象無象の無責任アンチみたいにすり替わっていく感じ。疲れてくるとこうなるのかと、本当に驚くばかりだ。

 

白黒思考が下した厳しくも不毛なジャッジを「そらきた!」とばかりにメタが拾って炎上させる。このクソみたいな構図、マジでSNSのそれに似ている・・・・。

 

僕は今、本当に以下のAAのような問答を、セルフで常に行っているようなものだ。そりゃぁ、疲れが抜けるわけがないな。


―逆に言えば、自分が何をしてもアンチに揚げ足を取られるのは、こんな感じなんだなという不思議な経験値を得られているという側面もある。どんなものも解釈次第だ。

 

不毛には違いないが、言葉にしてみると、ふと気づいた。本当のメタ認知は、ここからさらに一歩引いた目線なのではなかろうか。

 

思考が自分アンチみたいになってうんざりしている僕を、さらに高次元なところから苦笑しつつ観察している僕。ここまで割り引いて初めてメタと呼べるのではないか。

 

その立場からこの滑稽な構図を眺めたら、僕は何て言うだろうか。クラッチを切って、いいから寝ろや」と思うだろう。なら、それに従うのがベターだ。

 

SNSを一旦封印し、昼寝をしよう。美味しいものを食おう。そうしている間にアンチも飽きてどっかにいくでしょう。それくらい雑で良いのではないか。

 

僕のことを他人事に考えられたとき、疲労は少しずつ溶けていくんじゃないか。結論がだいぶズレたけど、本心として、そう思っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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