精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

無自覚だった職業病と、それゆえに生じる人間関係の歪み。

これは完全にコラムのような話になるが、僕が最近気付いた【職業病」について話したい。

 

塾講師というこの職業は、「相手に伝わる説明」をウリにしている。カッコつけて言えば、フロントエンドというヤツだろう。

 

それゆえに、常日頃から「説明の材料」を求めて、人の話を聞いたり、本を読んだりするという、言うなれば【勉強癖】が勝手に身に着く。これも1つの職業病だ。

 

それ自体は良いことだと思うし、自分がそういうことを無意識にやっていることにも、実は早い段階から気付いていた。しかし、最近改めて気付いたことがある

 

僕が罹患している職業病は、もう一つあるということだ。が、しかも、何ならついこないだまで、それ自体には全く無自覚だった。

 

その職業病とは何か。それは、相手に伝わっているかどうかを常に気にしながら話をしてしまうというものだ。それについて、以下つらつらと書いていこう。

 

 

思ったことをそのまま言えない病?

 

相手に伝わるかどうかを非常に気にするとは、どういうことか。”わかりやすい説明”というのは実にナマモノで、人によって、性別によって、年齢によって、まるで異なる

 

乱暴に言えば、江戸時代の解説をする際も、人間関係を伝えた方がわかりやすい人もいるし、地図を見せながら解説した方がわかりやすい人もいる。

 

だから、一つのテーマを、多角的に頭に入れる癖が自然と身に着く。これがさっきの癖の別の言い方になるわけで。これ自体は、すごく無条件で良いことにも聞こえる。

 

だが、デメリットも当然存在する。常に相手にとって響く説明を探り続けるということは、実際、非常に疲れるのだ。

 

例えば、僕の相手は13歳から18歳の学生が多いが、干支を一周させても余るくらい年齢差があるため、共有している常識や価値観が全然違う。

 

そのため、”僕らの世代にとって”伝わりやすい言葉や文法で話しても、まるで伝わらない。彼らの背景に合わせて、観点や内容、具体例をカスタムする必要が生じる。

 

自分の話はそのままでは伝わらないことを前提として会話してしまうため、やはりとても疲れる。それは飲み会でも全く関係ない。僕は生来の気ぃ遣いなのだ。

 

この職業病は、年上の人と話すときも同様に発生する。年齢が離れれば離れるほど、経験してきた価値観が違うのは同じだからだ。

 

だから、子どもの価値観。僕らの価値観。保護者の価値観、その3つが衝突したり入り混じったりする三者面談は、その調整に心底僕は疲れてしまう

 

―そして、この職業病に”気付けなかった”一番の理由が、僕が同年代の人と話す機会がほとんどないという環境に身を置いていることなのだ。

 

ここで、僕が言う同年代を、「僕との年齢差が±3歳以内の人」と定義しよう。そうすると、下手すれば4、5年は、同年代の人との新しい出会いがない

 

それはすなわち、日頃会話をする人全員に対し、常に「相手に伝わるか」というシビアな観点を持った状態で接していることに他ならない

 

思ったことをそのまま言う場がない。このどこか「取り繕った感じ」もまた、僕がバリアを張ってるとたまに称される理由なのかもしれない。

 

同年代の人との会話は・・・・。

これほど自覚が難しい職業病に、僕が気付けたのは何故か。それは、本当に偶然で、僕がフォローしているYouTuberのコラボ動画(対談動画)がきっかけだったのだ。

 

対談相手は女性だったのだが、その言葉一つ一つや、例え話、理念などが、すごく聞きやすいと、すごく不思議に感じた。自分事として、とても共感をし易かったのだ。

 

これはなぜなのかと思って色々調べてみると、その人は僕と同じ西暦の生まれだった。つまり同年代だからこそ、僕はその話を聞きやすかったのかもしれない

 

実際、たとえ相手がどれほどの美人さんでも、どれほどの高学歴でも、「年が近い」という点一つで、僕の中のとげとげしたみみっちい何かが消えるように実感する。

 

年が近いと、前提が似ている。もちろん互いに極端な環境で育ってきていると話は変わるだろうが、”時代”で括ると、僕らは同じ背景を持っていることになる。

 

すると、相手に合わせて言いたいことをカスタムする必要性が、グッと減る。この肩の力が抜けた感じが、僕の思う”なんか落ち着くし、ラク”の正体なのかもしれない。

 

これを思うと、自分の中の価値観が、また違った意味を帯びて浮き彫りになってくる。例えば、僕の周りの野郎は「24歳ぐらいの女性が一番イイ!」と言うヤツが多い。

 

僕はその感じを理解できないのだが、その理由が、今なら言える。24歳では年が10歳も違うため、互いの話が通じにくい。それは面倒で大変なことのだ。

 

また、偏見だろうが、若い子はスイーツからこってりしたものまで、ガツガツと食べることができる。僕は内臓が既にオッサンで、そういうものを食べると具合が悪くなる。

 

対極とまで言わないが、身体の機能も、価値観も、全てがばらばらである以上、そこに合わせるのも合わされるのも、僕としてはとってもダルいことに他ならないわけで。

 

同年代と話すことが楽なのは、お互いに価値観や経験が共有されているからだ。そして僕にとってそのラクさは、若さという魅力を超越する。

 

最近、笑ったときに口角や目じりに少し皺が入るくらいの人が好きになってきた。性愛的な魅力より、単にラクかどうかが基準になっている、自分の一貫した部分。

 

それを再確認できた今、増々自分のことを素直に肯定できそうな気持になってきた。

 

では今日はこの辺で。

 

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