『お金』が相対的に価値を失う一方、今は『人柄・個性・情熱』といった、資本主義経済では無視されてきた要素が価値あるものとして認識されているという。
ただし、これらの要素を身に着けるのは、一見簡単そうに見えて、実はそうではない。
日本だけでなく世界をも相手どれば、自分と同じ、さらには超えた個性を持つ人は確実にたくさんいるからだ。
例えば僕は英検一級・準一級を持っているが、これは個性として非常に弱い。僕より高いスコアで若い年齢の時に合格した人など、それこそ掃いて捨てるほどいる。
基本、資格等で裏打ちされた『肩書という価値』は代替可能だ。それは組織においても同じ話。今の上役が引退しても、別の人がその上役に取って代わる。
こういうものは、『個人のブランド』という意味で、価値あるものとしてはなかなかなり得ない。この罠は、僕も一時期ずっぽりハマっていた。
では、どうすれば唯一無二の自分を見つけて、かつそれを『みんなから価値を認めてもらえる』ところにまで引っ張ることができるのか?
それを端的に表したキーワードに、『熱狂』という言葉がある。
これは『善悪をも超えて、自分が情熱を捧げることのできる対象に没頭すること』であり、簡単に言えば『何かに超ハマっていること』である。
そして、『熱狂している人』というのは、話からもエネルギーが迸っているし、人間として魅力的なことも非常に多い。今日はそれについてのお話。
好きな事だけ饒舌だな(笑)は敗北宣言です。
普段は無口気味でも、自分が得意とするジャンルになると、途端にダダ―ッとまくしたてる人がいる。
これは、『熱狂』という状態が、もともとの性格等を飛び越えて発露している状態だと言える。目指したい没頭具合は、このレベルである。
そして不思議なことに、『誰が何に熱狂するか』は十人十色なのだが、そのワクワクっぷりは似たところがある。
例えば僕の知り合いには、ドルオタもミリオタもハンコづくりオタも筋トレオタもいるのだが、彼ら彼女らはそのテーマを語るとき、一様に目がキラキラしているのだ。
そのテーマを全然知らなくても、僕はその熱を聞くのが好きで、楽しく、かつ羨ましく思っている。
一方、これくらい熱を帯びている人に対し、『好きな事だけ饒舌だな(笑)』と斜に構えてマウントを取ろうとする人もいる。
こういう人はその時点で、熱量としてはその人に負けているとみて間違いない。敗北宣言と同じだ。
だから僕は生徒だろうが同年代だろうが、『熱狂』している人の話は、時間の許す限り傾聴することを心掛けている。
『熱狂』のヒントはどこにある?
では、どうすれば自分が『熱狂』できるものに出会えるか?これはマジで人のことは言えないのだが、ヒントになることは分かっている。
まず、『自分の得意ジャンルについて、友達に聞くこと』である。
自分の強みをエントリーシートに書こうと頑張っても意外と出てこないように、自分は自分の価値に基本鈍いのだ。
だから、サッサと他者の意見を聞くのが早い。すると意外なところを友人たちがスゲェと思ってくれていることもあって、面白い発見に至ることも多い。
もう一つは、『長時間やってても苦ではない何かを突き詰めること』だ。
例えば僕は魚釣りが大好きで、12時間くらい仕掛けを投げ続けても多分平気である。こういうのは、『熱狂』できる対象の可能性を秘めていると言えるという話。
後はそれを実際に行い、自分なりの経験と仮説を得て、また次の活動を行う・・・。
そういうのを繰り返していると、唯一無二の価値を持った自分になれる気がしてならない。今はまだ、僕も実験の途上なのだけど。
終わりに。 ―生徒の情熱を摘むこと無かれ―
こういうことを考える僕なので、生徒が何かに入れ込んでいるのを見ると、心の底で面白がってるし、応援してもいる。
その対象がニッチであればあるほど、オトナの理解や支援は得られないことが目に見えているためだ。最悪、強制的にそこから引きはがされるケースもある。
20年以上前、僕はスーパーファミコンに『熱狂』していた。それを危惧した親に、1週間以上それを隠されたことがある。
その間、世界から色が消え、生きている意味が全く無いような感覚を抱いたことを、未だに覚えている程だ。没頭できるものを失う辛さは、経験しないとわからない。
今はパラダイムシフトの途上なのは間違いないが、まだまだ衝突は続くよなあ。もっと寛容な世の中に、サッサと変わらねぇかな。
では今日はこの辺で。