今日は禅問答みたいな内容になるが、「ミス」についての自分の考えを整理してみたいと思う。
まず、「ミス」以外にも、「失敗」、「エラー」など、呼び方はいろいろある。それらに差異はあるのかと辞書で引いてみたが、全て同じ事を指しているようだった。
[名](スル)誤ること。まちがえること。。ミステーク。「を—する」「—」
ミスに関して言うと、しない人間はいないと僕は考えている。だから、それを防ぐ努力はマストだが、ゼロにすることは不可能だという風に捉えている。
むしろ問題は、ミスをしないことではなく、”した後”の心の構え方、もっと砕けていえば気持ちの面の押し引きの方が遥かに大切だと、最近感じている。
今日はそれを前提に、こっからつらつらと記事を書いてみる。
「ミス」に弱いと店を潰す説。
ミスを絶対にしないと意気込むより、むしろミスすることは前提と捉え直し、意識的に切り離して、感情的に引きずられないこと。これができれば、どれだけ良いか。
ミスに対して立腹する人。ミスを冷静に解釈し、次に活かせるヒントを取り出して活用する人。どちらの方が器が大きいか、考えるまでもない。
これを考えても、そもそも論、感情面のコントロールが重要であると見て間違いない。実際、ミスや負けに対して感情的になると、増々傷口が深くなってしまう。
このこと自体、仏教ではかなり古い段階で指摘されている話である。いわゆる「第二の矢を受けない」という教えだ。
そんな僕だが、今も心に、目に見えない矢が刺さっていると自覚している。ミスや失敗というほど大仰なことは起きてないのだが、少しイラっとすることがあったのだ。
だが、これ自体が一つの修行の機会だ。これ以上無駄に傷口が広がらないように、頭を意識的にクールに保っている。そして段々、鎮火してきているのも感じる。
ところで、ミスに強い、すなわちミスにうろたえない人はどんな人かを考えてみると、皆押しなべて冷静な人であると気づいた。そしてその共通点を、じっくり考える。
そして1つ気付いた。彼らはギャンブルをするか、勝ち負けが決まるゲームをするか、そのどちらかが日常に組み込まれているのだ。
つまり、ミスそのものに日頃から晒されて、慣れている。だからそれ自体の耐性も尽くし、そのミスに呑まれたらどうなるかを、既に経験則としてたっぷり得ている。
そのため、冷静だと見られるのだろう。冷静さとは、生まれ持った性格というより、日頃の訓練や環境で作られる後天的なものなのかもしれない。
僕自身、日常生活で意識的にミスをする機会を設けているだろうか。最近は、疲れていることを言い訳に、何かしらの勉強を怠り気味だと、ふと気が付いた。
リーダーがミスに耐性を持たない。これは、『ビジョナリーカンパニー3』という本を読むとよくわかるが、ものすごく危うい状況だと言える。
例えば、ミスや不調が連続すると、人は自然と、一発逆転策に頼る。これ自体は本能的な行動に近いため、基本誰であっても生じる心持である。
しかし、本当にそれに乗り出すと、話は変わる。一発逆転策への依存とは、企業が没落する全5段階の終盤、なんと4段階目に当たるのだ。
宝くじで高額当選するのを祈るのと同じで、失敗する確率の方が圧倒的に高い。そしてその逆転策が外れたとき、起業は復活を諦めて、没落し、消えゆく、と・・・。
一発逆転策に頼りたくなる心を自省で食い止め、冷静になり、基本に忠実に、コツコツと再建を進めること。窮地こそ、そういう地道な努力が大切なのだ。
―そして「ミス」に動じない冷静さを鍛えることは、昨日書いた「『暗い』と評される」という悩みを改善することにも通じる。
人から「暗い」と評されるからといって、僕はパリピのように振る舞うことはできないし、むしろそういう明るさだけで何とかしようとする輩は嫌いである。
無難なモデル像は何か。自分で言うのも恥ずかしいが、多分「穏やかで懐の広い人物」が僕にとって丁度いいところなのではないかと思う。
そのためには、無駄にポジティブになるのではなく、感情を常日頃から安定させておくことが必要だ。
そのために必要なのだとすれば、日常の中に計画的なミスや負けを取り入れることで、心を強くする時間など、ナンボでも設けてやろうと改めて誓える。
例えば、ずっとオンライン対戦のモードをつないでいなかった格闘ゲーム。これを機に、日々まだ見ぬプレイヤーと対戦してみるのもいいかもしれない。
その辺りのやり方は、僕のメンタルに悪影響がない範囲で考えていきたいと思う。そんな変なところに着地した備忘録、今日はこの辺で。