先日、「暗い」と改めて指摘されて、ちょっと凹んだといった感じの話を書いた。こういうときは、勉強こそが僕の心の動揺を鎮めてくれるもの。
そう思って、「暗い」性格を悩む人の声を拾い、しっかりと一つずつ読んでみるという時間を取ってみた。すると、玉石混交、様々な意見がずらっと並ぶ。
例えば、「暗い人 ウザい」「暗い人 めんどくさい」という検索候補には、「あー、実害あるんだ、ごめんなさい」という感想が湧いて、また少し凹んだ。
しかし、これも一つのリアルな感想だ。そう捉え直し、あくまでも客観的な視点を心掛けて、玉と石を切り分けつつ、読んでは調べて、調べては考えて、それを繰り返した。
結果、世間が言う「暗さ」と、僕が考える「暗さ」のズレ及び共通点、そしてそれを昇華させる方法の仮説など、その辺にはなんとか辿り着いている。
てことで早速、それをしたためていこう。
「暗さ」の正体。
「暗い人」と言われると、不思議と対極たる陽キャを目指したくなる。だが冷静に考えれば、それは極端な白黒思考だ。自分の理性に全く耳を傾けていないと同じである。
だから起点はもう少し冷静なところに置くべきだろう。やはり、「暗い人」とだけ言われると、それは解像度があまりにも低い。
まずはその定義を調べる必要がある。そう思って、「どんな人を暗いと思うか」という辛辣なアンケートを探し、じっくりと読み込んでみた。
すると、出てくる、出てくる。「感情を出さない」、「目を見ない」、「発言をしない」、「表情が乏しい」、「言葉が後ろ向き」・・・・。
自分事としてはどうか。感情を出さない、目を見ない、発言をしない、表情が乏しいのは、自覚がある。認めよう。では、それらを綺麗に逆にしたらどうなるだろう。
感情全開で目をガン見しつつべらべら喋る顔がうるさい男。うむ、精神が壊れたのかと思われるだけだろう。全友人と知人を無くしてしまいそうだ。
今よりは表情や感情を出す。今よりは目を見る。今よりは発言をする。目標は、その意識を通じての「暗い人」からの脱却であり、陽キャになることでは全く無いのだ。
だから少しだけ話を進めよう。「暗い人」と同系統にありながら、ポジティブな評価であるものはなにか。まずはそこを目指していくのが肝腎ではないか。
例えば、近いところで言えば「穏やかな人」「器の大きい人」「懐が深い人」がそうではないだろうか。ネットの意見も、概ねそんな感じだ。
では、こういった人たちと、「暗い人」を分かつ最たる要因は何なのか。差異がわかれば、狙ってそれを除去することで、評価を好転できそうな気がする。
するとすぐに気が付いた。僕のような「暗いと言われる人」は、自分の感情や胸の内について、最低限の発信すらしていない。つまり、何を考えているかわからない。
話し相手に自分の一切を明かさないとでも言おうか。そして、わからないものは不安である。人は不安を想起させるものには、闇を感じる。暗さの比喩としてもぴったりだ。
そもそも僕はどういう人を暗いと思うか、改めて思い返してみる。すると気付いた。口数が少ないというより、抱えているモノを出さない人をそう評する気がする。
なるほど。「暗い人」と、例えば「穏やかな人」の最たる違いは、穏やかな人はきちんと自分を発信している。口数やテンションで誤魔化した、小手先の派手さではない。
ゆったりとした笑顔と、前向きな言葉。傾聴と、最低限の意見。こういった要素があれば、人は「暗さ」ではなく、「穏やかさ」等を感じてくれるそうだ。
ここで、「器が大きい人」の特徴として、一番しっくりきたものを紹介する。これらを並べてみると、「暗い人」との差が、よりクッキリと浮き彫りになっていく。
・腹のすわった人
・どんな言葉も一度は受け入れる人
・相手の話すのをじっくり聞いてくれる人
・疲れていてもお年寄りに席を譲る人
・言い訳をしない人
・どんな人が相手でもビビらない人
・目下の人にも丁寧な言葉を使う人
・不言実行の人
・どんな相手も受け入れてくれる人
・気遣いのできる人
ここまで考えて、僕はすごく納得感を得た。「暗さ」を捨て去るには、声の高さや見た目の派手さといった小手先のことが第一には来ないのだ。
自分の感情・思考に素直になって、もっと発信すること。そして相手と話すこと。自分の開示をルーティンにして、慣れていくこと。そんだけなんだ、と。
”口数の少なさ”は、人物評としてニュートラルなそれだ。そこにネガティブな要素が3つ以上くっ付くと、その人は「暗い」と評されるのではないか?
「器の大きい人」の分析を読むと、僕が思った仮説は多分間違っていないのだろうと、じわじわと確信が得られていく。
「“器が大きい”というのは、危機的状況においても自己防衛的ではない、ということかもしれません」
器の大きさを外見から見抜くことは可能なのだろうか。
「自信たっぷりに見せたり、虚勢をはったりしても、やはり目線を合わせてこないなどのわざとらしさが感じられるものです。このような印象操作を試みると、かえって器の小ささが露呈する」(榎本氏)
また舟木氏、齊藤氏は「全身にブランド物を身につけていると、器が小さいと思われる」と口を揃える。
「ブランド品で身を固めている人は承認欲求が強く、等身大の自分を認められない傾向があります」(舟木氏)
「一目でわかるブランド物を複数持っていると、『そんなものに関心があるのか』『そんなことに時間を費やしているのか』と思われて、かえってマイナスにはたらきます」(齊藤氏)
暗さという評価を劇的に変えようとすると、「イタさ」や「底の浅さ」に繋がるなんて、なんと皮肉なことだろう。努力はじっくり、雨垂れ石を穿つという言葉の通りに。
ということでここからは、僕が今後取り組もうと決めている「暗さ」脱却のための努力について、つらつらと書いておこうと思う。
度量、穏やか、器が大きい。そうなるにはどうしたらええねや。
例えば、「暗い人」は、声が低いことが特徴にある。だがそれ自体が弱点というより、声が小さく、ぼそぼそとしゃべるから、暗さに直結しているだけではないか。
仮に、声が低くても”ゆったり”と”通る声”で喋れば、評価はむしろ高くなるだろう。どんな素質も使い方と鍛え方なのだ。
実際、アメリカの大統領も、スピーチの際は腹式呼吸をし、意識的に低い声でゆっくりと話すことを徹底的に心掛けるという。
ここで、声に関する評価を、一旦まとめてみる。ネットの意見ではあるが、概ね以下のようになっていた。
声が低くて小さい➡最悪
声が低くて早口➡小物
声が低いけど通らない➡イマイチ
声が低くて通る➡理想
これを並べたとき、最近自覚している課題をもう一つ思い出した。それは早口であることだ。
元来そっち寄りなのもあるけど、最近ずっと参考にしている、とあるトレーニング動画の指導の口調がうつっているのが原因なんだろうと思う。
それに付随して、「抑揚が無い」「単調である」とも時折苦言として言われるが、これら3つの要素も、僕の暗さに繋がっているのではないか。
ちなみに僕は、元々病的に人の目を見ることが苦手である。あまりにも苦手なので調べてみたら、これもまたASDの特徴の1つだと知った。救いは無いんですか。
・・ここで、頭の中にメイトリックスが現れた。「だったら改善すればいいだろう!!」
―僕と同じ悩みを持っている人が、これまでの歴史上一人もいなかったわけはない。必ず探せば、その課題を好転させる術があるはずだ。鍛錬とは、そのための手段だ。
そうして色々調べていくと、今の僕はアナウンサー、落語家、声優のトレーニングや意識付けがとてもいいのではないかと思えている。
職人技として、共通する【型】を学び、声と印象を変えていく。これ自体今までやったことがないワークなので、結構心が躍るのを感じている。
具体的にどんなトレーニングを入れていくか。これは結果が出たヤツに絞って記事を書こうと思うので、一旦ここでこの話自体は終わりにしておく。
ということで今日はこの辺で。