何日か前に記事にした通り、僕は「観察瞑想」という瞑想法を取り組んでいる。もはや取り組んでいるという言い方より、”ハマっている”といった方が正確かもしれない。
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瞑想というとしっくりこないので、あえて「自分の心の徹底した観察」と言い換えて理解しているのだが、日頃からそれを意識的に実践し続けている。
この「観察瞑想」の熟達度を高めたい理由は、常に自分がしていることを第三者の視点から眺めることができるようにするためだ。もっと言えば、他人事化したい、となる。
例えば、恥ずかしいからやらない、面倒だから避けるといったように、自分の感情や反応に言動をハックされないようにできるようになれば、色々と捗るだろう。
その目的のために色んなことを調べては試し、新たな知見を得て云々といったサイクルを繰り返しているのだが、最近しっくりくるイメージが、段々絞れてきた。
まだ抽象化が済んでいないのだが、それを意識しつつ観察瞑想を行うことで、自分の中の手応えが日々深まっていると感じている。
そしてその概念を説明するのにしっくりくる具体的イメージは、現在2つある。今日はそれら2つを、一旦思考の整理を兼ねて棚卸しする。
筋道なき展開。
まず1つ目は、最近よく耳にする「画像を取り込むと、AIがそれの続きを自動で動画生成してくれる」的なものだ。
その動画を見ていると、あたかも自分がヤバいクスリをキメてしまったかと思えるような、全くもって秩序の存在しない、非常にカオスな映像がどんどん展開されていく。
例えば、人の手が2本に分裂したり、それが枝分かれして別の人間が生えてきたり、女性がジャンプしたかと思えば、そのまま宙で体がスライムのように変形する。
ラーメンを食べているのかと思ったら、液状化した器を美味しそうに吸い込むし、火と思えば何の脈絡もない場所からカートゥンタッチの犬や猫が次々と出現する・・・。
という具合に、全く脈絡のない展開が次々と繰り広げられる。展開というより、論理や筋道が崩壊している、と言った方が良いかもしれない。
その動画に対して、「この不条理さ、まるで夢を見ているようだ」というコメントがあったが、これはすごく的確な評価だと素直に感じた。
夢というのは、まさに不条理なイメージの連続であり、論理的なつながりが全くない。そして繋がり無きままにひたすら思考・感情が流れるのは、実は僕らの脳も同じだ。
例えば、5分前に何をしていたかを思い出すのは簡単だ。だが、5分前に自分が抱えていた感情を拾うのは、とても難しい。思い返そうとしても、取り戻せないのだ。
「今自分は、苛立ちを感じている」と思った数分後には、「Makuakeで魅力的なキャンプグッズを見つけて興奮している」かもしれない。そんなのはザラなのだ。
そういった感情の移り変わりはどこまでも不条理で、繋がりも無く、そして無責任であると、一連の流れをボーっと観察できたらすごくラクだろうなと。
AIのカオス動画を観ながら、そんなことを考えている。
「夢」を言語化した男。
もう1つの例は、ファインマン氏の名作【ご冗談でしょう、ファインマンさん】の上巻に登場するエピソードである。
彼が大学生の頃、講義の課題を通じて、自分の夢を徹底的に観察し、その考察をレポートにまとめたというくだりがある。
彼は夢がどのようにして展開するのかを言語化(実況)しながら観察していたのだが、その際論理が完全に崩壊し、思考がぐちゃぐちゃになる時点があるのに気付いたそうだ。
そのカオスを意識的に察知したら、どうやってその場面に至ったか、彼はそこから逆に辿ろうとしたという。しかし大抵、ほんのちょっとしか戻れなかったそうだ。
これを踏まえ、「夢とは、分断されたイメージがただ流れたものである」と彼は解釈し、レポートにまとめている。ちなみに、それは「優秀」という評価を受けたそうだ。
この考察には非常に感心した。言語化が不可能にしか思えない、夢という限りなく抽象的な現象を、よくあそこまで言語化できたものだと感動すら覚えた。
終わりに。
覚醒状態にあっても、例えば思考や感情は夢の如く移ろいやすく、そしてまるで流れる雲のように形がなく、捉えどころがない。
この取り留めのなさを改めて認識し、そのメガネを通じて心の中を”他人事として”観察することが、僕にとっての観察瞑想の暫定の定義である。
修行の果てと言えばそれまでだが、長い期間をそうやって過ごせば、確かに自分の感情さえも他人事のように感じられるようになるという予感がある。
そしてその世界は、非常に静かで平和なものだと予感している。もちろん、早ければ早いほど良いが、いつかそこに辿り着けたらそれだけで、僕は強く満足するだろう。
では今日はこの辺で。