精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

勉強を継続できる、欠かせない二大要素が見えてきた件について。

二日酔い不可避のレベルで大量飲酒しちゃったのですが、最悪の症状【頭痛】は回避できてまだツイている中元です。(気分はめちゃ悪い)

 

はい。いつぞや、「やる気がなくて勉強できない」というロジックは終わってる的な話を記事にした。最強なのは、ルーティンとして継続できるヤツだ、とも書いた。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

この考えは、実のところ今の仕事を続けてきた結果思うことであり、僕自身は小中高の頃、ルーティンとしてそんなことは、ほぼできていなかった記憶がある。

 

ただ、我ながら引くほど勉強に没頭していた時期もあるわけで。一体、なぜか。そんな風に、それができた理由をぼんやり考えていたところ、ふと気づくことがあった。

 

「元来の気質としてのアレと、その当時に抱えていたソレが合わさると、勉強に取り組める爆発的なエネルギーが生まれるのでは?」

 

―ということで今日は、勉強を継続できる、欠かせない二大要素として僕が考えていることをベースに、記事を書いてみたいと思う。

 

 

序論:「勉強は楽しんでやるもの」とか、そんなんレベルが上がってからの話ですわ。

 

勉強は楽しんでやるもの、という風潮がある。僕はこれについて、全面的に賛成するのは難しいなと感じている。少なくとも、中級者になってからの論理だと思う。

 

例えば、ゲームを始めたばかりのことを考えるとわかりやすい。序盤はひたすらに、そのゲームにおける共通言語を理解し、実際にあれこれ試す段階からスタートする。

 

いきなりそこに面白さを見出す人もいるが、それはレアケース側か、ゲームの設計が非常に上手いかのどちらかである。

 

普通は、そんなことを思う余裕も余白もない格闘ゲームの技はキャラ一人当たり数十個あるし、組み合わせとなればもはや無限大レベルだ。

 

だから、最初から「勉強は楽しいんだ!」と刷り込んでも、生徒には響かないのではと思えてならない。勉強というゲームのルールを覚えてから、そう思えるかどうかだ。

 

それよりもむしろ、誰もが持っている部分を刺激し、それをモチベーションに変えた方がいいと思う。勉強は、あくまで目的ではなく手段なのだから

 

ということで愚痴はこの辺にして、早速欠かせない二大要素について触れていこう。

 

欠かせない要素1:好奇心

 

ひろゆき氏も配信で語っていたが、何かを調べる・学ぶ・暗記するというすべてにおいて、好奇心は欠かせないファクターだと強く感じている。

 

僕自身、生徒のそれを殺さぬよう、また自分のそれを削がぬよう、結構注意しているくらいである。精神年齢は9歳くらいがちょうどいいのだ。

 

ちなみに、好奇心について辞書で引くと、こう書いてある。

 

珍しいことや未知のことなどに興味をもつ心。「―が強い」

 

この一文に、色々と凝縮されている。例えば好奇心が強ければ、知らないこと、わからないことは、プライドをへし折る悪ではなく、興味の対象として捉えられる。

 

教科書の説明では理解できない、「では、参考書を当たってみようか、先生に質問してみようか」という風に。

 

好奇心が強ければ、壁にぶつかってもすぐさま問いを立てて、別の学びに移行することができる。しょうもない質問だといって、子供の好奇心を殺すのは、リスクが高い。

 

失われた好奇心を必死で取り戻すためのカリキュラムが、昨今話題な【探求学習】だとさえ僕は考えている。ならば最初から、失わせなければいいわけで。

 

問いかけを肯定しよう。また、「ではどうする?」という意識をクセづけるよう、声掛けをしよう。僕は好奇心を、とても大事で素晴らしいマインドだと考えている。

 

欠かせない要素2:必要性

 

好奇心に勝る可能性があるとすれば、僕は必要性だと思う。言い換えれば、「勉強しなければならない強い理由」である。これは自分に、原体験がある。

 

僕は中学の頃は勉強はサボるし話は聞けないしで、内申点でちょこちょこ2をつけるような有様であった。適当な私立に滑り込もうと、軽く考えていたほどである。

 

しかし、僕が狙っていた私立に、学年で一番嫌いな奴が推薦を取ると知り、その目論見は崩れた。絶対に同じ所へは行きたくない。僕の中に必要性が生まれた。

 

そこからは、叶えたくない未来を避けるため、猛烈に努力した。問題集を解きまくり、自習に没頭し、成績をひたすらに上げ続けた。

 

そして終わってみれば、無事に志望校へ合格。その後はまた2年くらい熱は消えるのだが、大学受験の際は別の必要性がまた生まれ、学習に没頭し、突破できたわけで。

 

ちなみに、必要性には良い悪いは存在しない。憧れの学校に行きたいという熱意も必要性だが、最悪の未来を避けたいという願いもまた、必要性なのだ。

 

少し運の要素も入ってくるが、生徒に対し自己の内面との対話を促したり、面談をしたりして、ほじくったり揺さぶったりするのも一手である。

 

例えばみんなの前で宣言する・させるというのもまた、必要性を生むための一手段である。参考にされたし。

 

仮説:果たして勉強は、3年間頑張る必要があるのか、否か。

 

最後に、まとめに変えて、僕が思うことを書いてみる。それは、勉強は3年間頑張る必要があるのか、否かだ。

 

―これに関しては様々な意見があると思うが、僕は3年間ずっと肩肘張って頑張る必要がある例は稀だと考えている。

 

頑張るとは、どこか無理をしている状態だ。それを3年間続けるのは、並大抵のことではないし、そうしないと届かない学校なり資格なりは、どれほどあるのだろう。

 

計算してみたことはないが、18~20歳くらいの現役生・浪人生の総数に対し、3年間猛烈な努力を継続できる割合を掛け合わせると、定員を割るのではなかろうか。

 

アンケートや合格体験記を見ているとわかるが、秀才たちは勉強を頑張っているというより、淡々と、するべきこととして取り組んでいるという印象が強い

 

勉強なんて、するのは当たり前。継続に一切のモチベーションを要しない。こういう子たちは、マジで強い。

 

そしてこういった素質がある子たちに、好奇心や必要性が備わったとき、とんでもないところまで短期間で到達するのではないかと思う。

 

・・時折、何十回も落ちながらも、苦労して難関資格を取った人の話が出てくる。それはそれで尊い努力だし、報われたらさぞ嬉しいことだと思う。

 

だが悲しいかな、多分仕事は一発で受かった人の方へ流れていく気がしてならない。実際僕も、正直10浪した医師より、現役で試験を突破した医師に診てもらいたい。

 

無理して負荷を掛けて、それで能力が一時的に伸び、結果届くラインなら、僕は1年くらい必死こいて頑張ることは悪くない投資だと思う。

 

しかし、例えば僕がハーバードを目指すような無謀な挑戦は、たとえ5年頑張れば届くと言われても、リターンに見合わないと判断し、絶対にやらない。

 

この辺は【確証バイアス】に陥っていると矯正することはまず不可能ではあるのだが、一つ意見としてここに残しておく。

 

では今日はこの辺で。

 

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