昨日の記事の続きめいた内容になるのだが、僕は今、仕事用の分人・ペルソナを作って、それに徹することが、自分を守る最善の術だと考えている。
その背景は昨日書き殴ったので今回は割愛するけど、本心をさらけ出し、素の自分で生徒と相対していると、色々とバグがありまくりだったというのが直接の契機である。
素とされる僕は、例えば子どもが言うことを聞かないのを全く許容できず、苛立ち、己の無力さを呪う、責任感が拗れためんどくさい奴なのだ。
その論理で考えて行動し続けると、そりゃ心はすごく疲弊する。いわば疲れという形で表面化してくれて、少しラッキーだったなと思うところさえあるわけで。
少し話が反れたが、仕事中だけでも素とは違う思考回路・論理を使えるよう、それ用のペルソナを意識的に作ろうと、今は試行錯誤を重ねている。
そして今日は、ただの途中経過だが、今までの学びを記事として取りまとめておく次第である。ではいこう。
キャラクター設定に意味はあるか?
演技に用いる自分を考える際に有効とされるのは、【自問自答】だ。ある決断や行動、問題に際して、適切な問いを投げれば、感情を排した行動になり得る。
例えば、「〇〇さんならどう考えて、どう行動するだろうか」と想定するのもそうだし、「リーダーならどう振舞うのが求められるか」を問うのもそうだ。
となれば、仕事用の分人を作る第一歩は、自分がなりたい、好ましい思考をするモデル像を考え出すことではなかろうか。あとはそれを忠実に演じればいい、と。
―ただしここには、一つ大きな罠がある。特に計画性も無く理想のモデルを考えたところで、あまりにも自分から乖離したものは、演じようがないというものだ。
簡単に金メッキが剥がれるようなものと形容してもいいかもしれない。理想とはいえ、やはり現状から限界まで背伸びした先くらいの水準に留めるべきだろう。
では、現状から限界まで背伸びするとは、具体的にどんなラインなのか。ここを考えるのは非常に難しいので、試行錯誤が必要な部分だと言える。
ちなみに自分ごととして一つだけ腑に落ちているのは、僕が生理的に嫌いなものを好きになるといったことを前提としたモデルは、確実に失敗するというものだ。
例えば鉄拳制裁を辞さないとか、非情な決断を顔色一つ変えずに取れるとか。それこそ白竜や峯義孝のようなキャラクターには、僕は絶対になり得ない、と。
しかしながら、とんでもなく嫌い、あまりにも乖離している、といった要素を避けることさえ意識すれば、割と制限なく、なりたい自分をこさえることは可能に思う。
絶望的な人見知りの人でも、徹底的な準備を積み続け、場数を踏んでいくことで、数百人の前でスピーチをすることが可能になった例も、ごまんと存在するくらいだ。
その辺の可能性にまで蓋をする必要はないと思う。僕らは天性の悪役じゃない限り、理想の自分を演じることはできる。そう信じている。
演じるとは何か?
当然だが、僕には演技の経験は全くない。幼稚園児だった頃、「かぐや姫」で本来存在しない謎のスズメの役をやったのが、唯一無二のそれだ。
だからこそ、それについて情報はあれど、経験が皆無だ。だからこそ、インプットの質も、すこぶる悪いような気がしている。
しかし、考えなければ見えてこない。つまるところ、演じるとは何か。語源といったもっと掘り下げた話は、今度時間を取って辞書でも引くとしよう。
さて。僕自身は役者でもなんでもないのだが、「講師たるもの五者たれ」の五者には役者も含まれるので、仕事に直結した、学ぶべきテーマの一つには違いない。
ということでまずは、好きな俳優の言葉を読みながら、今の自分でも同意できる点は無いかを考えた。
だが、メッセージ性が非常に強く、まだまだ今の僕には、共通の経験や思考、哲学が無くて、拾うことができやしない。
そういうのもあり、まずは演じることについて敏感になるため、しばらく自覚をもって演技に取り組み、違和感や学びを蓄積することが要だと思った。
モデルの像を頭に浮かべながら思考し、行動し、別途時間を取って、それは場面等に即していたのかを検証する。この愚直な繰り返しが全てではないか。
どえらい抽象論に着地してしまった気はするが、また新しい学びの必要性が開けたことに、かなり心が躍っている。
僕は理想的な講師には”なれない”。ただし、近似値まで正確に”模倣することはできる”のではないか。
また一つ、大きな問いを持った以上、じっくり時間をかけて答えに辿り着きたいと思う。
では今日はこの辺で。