別ブログなのだが、こんな話を書いた。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
「嫌いなもの」を取っ掛かりとして自己内省を深めてみるという内容なのだが、その結果たどり着いたものは、なかなかに興味深い。
それは、僕は過去の自分が猛烈に嫌いというものだ。具体的には、特に小1頃までの自分が凄く嫌いで、だからこそ似た言動をする子供も嫌い、という仮説が立ったのだ。
自分の中で許せていない自分があるからこそ、それがトリガーとなって特定の言動に強い苛立ちや憤り、嫌悪感を覚えてしまう。
となれば、僕が子供の躾と同時に取り組むべきタスクが浮き彫りになる。それは、過去の自分を意識的に許していくということだ。
そこを起点として色々と考えたり調べたり試したりしたのだが・・・結果、当初想定していたのとはまるで異なるところに着地し、素直に驚いている。
今日はその思索をなるべくそのまま書き殴り、なんかのヒントにしてもらえればってことで、あまり推敲せずにアップしておく次第である。では以下、本題だ。
過去の自分を見つめるフィルターとバイアスを意識して、取り除く。
まずは僕が過去の僕を、”正確には”どう考えているかを突き止める必要がある。フィルターもバイアスも意識的に取り除き、客観的な言葉で表現したい。
例えば、僕は過去の僕のどんな言動を許せないのか。まずは過去の僕(子供の頃の自分)に対し悪口を遠慮なく言うつもりで、その要素をメモ帳に並び立ててみた。
癇癪もち、無知、周りを見れない、ワガママ、命を軽んじる、先を見れない、狭量。
こんなところだろうか。書いているだけで、すごくイライラしてくる。そしてこれらの特徴が、正直言って僕が好きじゃない子供の特徴に、余すことなく合致する。
過去の自分の許せない部分は、今の自分が嫌悪感を抱くポイントと、とても密接にリンクしていることがこの時点で浮き彫りとなる。
だが、言葉にしただけでは、まだまだ浅いところで判断をしようとしている感覚が拭えない。まだこの時点では、多分にバイアスがかかっているのさえ感じられる。
ということで、引き続きさらに、自分の感情を深掘りしていく。
許せない過去の自分に伴う感情は何か?
ある意味身悶えしながら、過去の記憶で許せない自分の姿・思考・場面を思い出し、メモ帳に書き出したと、さっき述べた。
その要素全てに僕は苛立ちを”今は”覚えるのだが、苛立ちは他の感情を簡単に覆い隠すほど、強く単純なものだという指摘もある。だからその裏を考えることにした。
僕は何に苛立っているのか。その根本を問う。そしてその根本に対する感情は、本当に苛立ちや怒りで合っているのか、更に考えを進める。
すると、全てではないのだが、苛立ちとは少しズレた感情を想起する記憶があるのに気が付いた。その感情とは、面白いことに、恥である。
僕はそれらの記憶に対し、”強い恥を覚えている”。だから、そんなことをした自分に、”今、苛立っている”。こんな関係性が見えてきたのだ。
ここで手に取ったのが、【感情は、すぐに脳をジャックする】という本だ。後半に掲載されている鼎談(ていだん)に、恥をテーマにしたものがあったのを思い出したからだ。
そこで指摘されていたのが、恥は罪と似ている、ということであり、確かに3人が話し合いながら、これらの線引きが人により異なり、また曖昧なことだと認識していた。
では、僕が過去の自分に抱えているのは”罪”なのだろうか。その観点から見つめ直したが、「なんか違うなぁ」という違和感が拭えない。つまり、恥で合っているのだろう。
そこで、恥という感情についてさらに色々調べてみたところ、ものすごく濃い教えが凝縮された、こんなサイトを発見した。
是非アクセスして、全文読んでほしいのだが、今回は僕が特に膝を打った箇所に絞り、引用してご紹介する。
もっと簡単に言えば、罪悪感と羞恥心の違いは、感情を生み出す原因にあります。
罪悪感は、自分の価値観や考えに反する行動をとったときなど、自分自身に対する否定的な認識から生じ、羞恥心は、自分の欠点が他人に露呈し、他人から否定的に見られたときに生じます。
つまり、罪の意識は自分に対する自己評価に関係するもので、恥は他人から見た自分の評価に関係するものです。
罪悪感も羞恥心も、自己認識ではありますが、罪は、自分の目を通して自分自身を見ることで生まれ、恥は、他人の目を通して自分自身を見ることで生まれるのです。
恥(≒羞恥心)は、他人の目を通して自分自身を見ることで生まれる。この定義に、すごく納得した。そして説明はさらに続き、「恥のデメリット」にも及ぶ。
私たちは、社会の規範に反した行動をとったときや、取るべき行動をとらなかったとき、または社会の常識に達していないと他人から見られたとき、恥を感じます。
恥をかくと、ありのままの自分をさらけ出したり、相手の目をまっすぐ見ることができなくなります。
さらなる恥をかくこと、嘲りの対象になることを恐れ、自分の行為が公にさらされるのを避けようとします。
そのために、私たちは、その問題の行為そのものをなくそうとするのではなく、自分の恥ずべき行為から他人の注意をそらしたり、人からその行為を見えなくしたり、隠したりすることにフォーカスします。
社会からのけ者にされるのを避け、自分が社会から受け入れられる存在であることを証明することが最重要事項で、根本的な問題解決に取り組むよりも、表面上取り繕う方が簡単だからです。
つまり、羞恥心によって、社会のルールから逸脱した行動を人前でとらないようにする強力なインセンティブは生まれるのですが、自分の内面を向上させたり改善するインセンティブは限定的なのです。
恥は、社会的脅威を前提としながらも自己中心的なシステムから生まれる感情なのです。
恥は、社会的脅威を前提としながらも、自己中心的なシステムから生まれる感情。この文言が、頭の中で反響する。背筋が冷たくなる恐ろしささえ、感じてしまう。
統合すれば、「恥は社会的通念から逸脱していると他の人から思われているという脅威によって生じる、感情論的な恐怖」といったところだろうか。
そしてプルチックの感情の輪をいつも通り参照すると、ビンゴだった。恥とは、恐れと嫌悪の混合感情なのである。
すごく急だが、段々と全てが繋がってきた。まず、過去の自分と現在の自分は、確かに成長する前と後であるとはいえ、もはや別人と言っていいくらい異なる個体だ。
過去の僕を今の僕が振り返るとなると、もはや自己肯定・自己否定バイアスさえ超越して、他人を観ているような気分になるのも、すごく頷ける。
癇癪を起こす。言うことを聞かない。意味不明な言動を大人に浴びせる。ワガママで思慮が浅く、何より無知すぎる。
これらを兼ね備えているなんて、あまりにも恥ずかしい人間だ。僕はそうラベリングしてしまいたくなるが、厄介なのは、その相手は過去の話とはいえ、つまり僕なのだ。
自分自身を客観視していくと、自分自身が恥晒しのような存在であるように見えてくる。無邪気で気付かなかっただけで、僕は相当浮いていた、ということだ。
その当時はカッコイイ、カワイイ、モテると本気で思い込んでやっていた黒歴史を、時が経ってから指摘されて、晒される状況にとても似ている。
やはり、罪ではなく、恥。僕は過去の自分を嫌悪し、同時に今このときも、社会的に鼻つまみ者だとラベリングされることを恐れている。
あまりにも強大で歪な敵を見つけてしまった(というよりいつも表現が違うだけで同じものに辿り着いているのだが)今、僕はどう取り組むべきなのだろうか。
そこで鍵になるのが、過去の解釈自体を広い目線で変えることである。続いてはそんなお話を書いていく。
この恥の”おかげ”で現在の僕はどうなっている?
冷静に考えれば、「恥」について、過去の自分が結構イイことを書いているのを思い出した。これまた別のブログだが、紹介しておく。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
ネットの罵詈雑言で嫌な気持ちになる理由がわかった。僕が過去の自分の言動に抱いている、猛烈な恥の感情を思い出させるからだ。
しかしその恥の感情は、今の僕がその言動を取ることを食い止める、強い自制になっている。僕がなりたくない僕から自然と今の僕を遠ざけてくれている、大切な感情だ。
無条件に恥の感情を消すことは、なりたくない僕に近づくことを意味してしまう可能性もある。嫌悪感は、「そうではない」というメッセージだ。
恥を肯定しない。恥の感情によって生じる嫌悪感を、僕は肯定する。
そしてこの考え方は、先に紹介した記事でも、結構近いところが恥を罪へ昇華するための提案として、紹介されていた。
人を否定するのではなく、何が悪かったのかを具体的に示すこと
やはり恥とは、自分の中で折り合いがついていない部分のようだ。誰にもバレないまま墓場に持っていきたい、自分の中の恥部。それをあえて、客観的に紐解く。
そうすると、更に一歩問いが深まる。一体当時の僕はなぜ、そのようなことをしてしまったのだろうか?
そこで効いてくるのが、以下のブログで書かれていた観点だ。
つまり、当時の僕が置かれていた状況、環境、持っていた知識などを考慮すれば、そうするしかなかったがためなのだ。簡単に言えば、無理もない、というところか。
例えば過去の僕の癇癪も、感情の制御をする部分が未発達だったことや、昂った際にどうすればいいかを誰からも教えられてこなかったことを思うと、自然の反応となる。
そもそも、過去の自分を断罪する今の自分は、後知恵バイアスというメガネを通してほざいているに過ぎない。アンチコメントと同じで、無視して然るべき評価だ。
ゆえに、過去の僕の行為は、その当時の僕からしたら、正義であり正解だったのだ。全てを知った後でごちゃごちゃ抜かすのは、やはりお門違いだといえる。
少し、過去の自分に対して抱くわだかまりが解された気がした。球磨川禊ではないが、『僕は悪くない』という感情が自然と生じ、受け入れたい気持ちになっている。
・・・だが、それを無条件で許すのも、”勿体ない”。そこから何が学べるか?今の自分ならどう活かせるか?というところまで突き詰めると、これは成長へと転化する。
本来はそこまで至れば、ウジウジ悩んだりむやみに苛立ったり、どちらもしないはずだ。しかしなぜ、最初に書いた要素が、結局なぜなかなか許せず、手放せないのか。
もう少し踏み込んで、自問自答を重ねる。
―そんなとき、突然、前回内省した時とはまた違った仮説に今行き着き、背中にヘンな汗が流れてきた。
その仮説は、にわかには信じたくないほど、勘弁願いたいものだ。だが、目を反らさずに、ここでちゃんと言葉にしておくことにする。
その仮説とは何か。一旦ここでもう一度、最初に書いた、過去の自分の許せない点を並べてみる。
癇癪もち、無知、周りを見れない、ワガママ、命を軽んじる、先を見れない、狭量。
その上で、思う。もしかして・・・。
メタの僕が、「今も治ってねえよ」と認知しているからこそ、過去の自分に恥の感情をもっているのではないか?
バイアスだろうが、そういわれれば、そう思えてきた・・・。
僕は未だに癇癪もちで、物事を知らず、周りを見れず、ワガママで、命を軽んじるところがあり、先を見通す力に乏しく、そして器が小さい。
これ、過去の僕に対して抱く不満ではなく、いい年になった今の自分が直せていないからムカつくってだけなんじゃないの?
確かに、頻度は減ったが、ゲームで負けると未だに台パンしてしまうことはある。知ってる側に居ると思いたくなるときもある。空気が読めない部分もめっちゃある。
ワガママであることは自覚している。世界が自分を中心に回ればいいのにと、すごく思う。だから先見性も欠けていて、それはそのまま僕の器のサイズに繋がる。
唯一改善されたことは、命を軽んじるところが無くなった点だろう。僕は家に出たゴキブリやカメムシも決して殺さず、家の外に追い出している。
道を横断するミミズやカマキリも、なるべく土や草むらにリリースしているくらいである。(ちなみに吉川晃司氏もそうするらしい)
僕は子供を見ることで、過去の自分の汚点をリプレイされている気分になると考えていたが、これは大きな思い違いだった。いずれも直っていない、今の僕の人間的欠陥だ。
今の僕が潜在意識で苛立っている、自分が抱える人間的な課題を逆撫でされるからムカつくと考えれば、過去の僕の定義・解釈を変えること自体が、ズレている気がする。
僕が許すべき存在は、今の僕なのだ。時間軸を思いっきり間違えていた。そもそも問いや思索の起点を間違えていた。だから何年も改善されなかったのか・・・。
イメージとして、腰が痛いからと背筋を延々とストレッチしていたけど、本当の原因は骨盤自体にヒビが入っていたとか、そんくらい見当違いだったような印象を持つ。
改めて、問いが立った。今現在の僕が持つ欠点・課題を、どう受け入れていくか。実はこれ、今まで考えたことがあるようで、実は一度もないテーマだったりする。
しかし、目線が変わるのは大体、良いことの兆しだったりする。自分を許せれば、目の前の存在も許せるという話はよく聞く。そう信じることにしよう。
では今日はこの辺で。
参考サイト一覧。