精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

教科書の定義より、当事者の言葉を読む方が、何倍も納得できるよね、と。

昨今、これまで「変わり者」「不思議ちゃん」と評されてきた子に、「ADHD」だの「ASD」だの「発達障害グレーゾーン」だの、そういう定義がされることが多い。

 

この辺はグラフを見ると、よりビジュアルで理解ができる。何より考えさせられるのが、少子高齢化で子供の数が減っているのに、診断数自体が増えていることである。

【最新統計】通級に通う発達障害児(自閉症・ADHD・学習障害)の人数│発達障害支援チャンネル

 

これは例えば、「発達障害」という言葉が普及して、「ウチの子ももしかして・・」と思う親御さんが増えた等の要因もあると思う。

 

つまり元々こういう子はたくさんいたのだが、診断される数が増えただけという考え方もできるわけで。まぁ、キリが無いので、これ以上派生はさせないけど。

 

ただし個人的な体感としても、やはり昔より増えている気はする。入塾のタイミングで「ウチの子には特性がありまして」という相談を、今年は既に2~3件受けた。

 

それゆえにここ最近は急ピッチでそういった特性の勉強を深め続けており、その途上で「あー、俺も多分そうだったんかもな」という発見にさえ至っている。

 

さて。そうやって雑多な学習を繰り返した今、思うこと。それは結局、一番納得感が強く得られるのは、教科書ではなく当事者の声そのものだということだ。

 

今日はそんな話を書きながら、自分の脳内を整理したいと思う。

 

 

僕らが想像もできない世界を言葉にするということ。

 

僕ら一人一人は、肉体によって隔てられた個人である。外から見れば、その人が何を考えて、世界をどう見ているか、そんなものは互いに分かりっこない。これが前提だ。

 

よくよく考えれば、教科書に書かれているような特性・特徴は、当事者を観察した人がその人の価値観・言葉で書いたものである。

 

いわば、当人と僕らの間に、人を一人挟んでいる。この状況を乱暴に例えれば、フィクションの世界に描かれた歴史上の人物を、オリジナルそのものと受け止める感じだ。

 

例えば、戦国時代を基にしたゲームの織田信長は、どれも自信に溢れ、「魔王」さながらの言動や強さが目立つ。

 

だが、その姿はあくまでも、実際のイメージを参考にしているとはいえ、クリエイターが思い描く”オダノブナガ”なのだ。そのことは、意識しないと簡単に抜ける。

 

教科書等に描かれた発達障害とされる子達の特徴も、これに似て、どこか編集された感じというか、当人”らしさ”たりえる想いや感情が、ほぼ乗っていないように思える

 

僕が知りたいのは、それこそ「衝動性があり、じっとしていることが苦手で、思ったことを口に出してしまう」ときのその人の思考なのだ。

 

隔てられた肉体を超えて、そこを共有するためには、やはり言葉が要る。言葉を通じて僕らは、やっと”理解”に至るのではないかと感じている。

 

実際、noteを調べて、当事者だという人の声をいくつか読んでみた。それによって僕は、もちろん思い上がるつもりはないが、その人達の見ている世界が少しわかった。

 

特に「そういうことか」と得心したのは、この方のnoteだ。そこに載っていた発達障害の当事者が見ている世界というのが、すごく興味深かった。

謝っている発達障害の当事者が同じミスを繰り返す理由|ゆらり


全ての情報が同じ重みづけをもって目に飛び込んでくるのに加え、優先順位もクソも無いから、片っ端から反応してしまう。

 

ときに思い切り飛躍する形で別の情報を連想し、しかもそれを思いついた瞬間に口から出してしまうため、「話飛ぶよな・・」と評されることも増える。

 

―何が興味深いかって、実はこれ、僕もしょっちゅう起きる現象だからだ。

 

例えば朝起きて、リビングからキッチンに移動した瞬間、以下のようなフレーズが頭にパン!と一気に浮かぶ。

 

「魚に餌あげなきゃ」「トイレしてぇな」「薬も飲まなきゃ」「シンクに洗い物あるな」「プロテインの味はどっちにしよう」「今日の仕事はちょっとしんどいな」「新しい髭剃り買おうかな」「なんか玄関汚いなぁ」

 

本当に時折、どうしていいか分からずに1分程度フリーズしてしまうことがある。これが日常なので、もしかしたら変なのかどうか、今の今まで考えたことも無かった。

 

この一幕を考えてもよくわかる。一度編集を介すると、情報が良くも悪くも減ってしまい、本質からどこか遠ざかる。もちろん編集自体は悪じゃなく、その性質の話だ。

 

他の記事を読んでいても、「衝動性はマジでコントロールできない」という当事者の話を、何度も何度も目にする。ゼロにできず、少しずつ弱めるのが限界らしいのだ。

note.com

 

たとえ普段はセーブできていても、ふとした弾みやメンタルの好不調で、その自制心が簡単に吹っ飛ぶことも示唆されていた。そしてそれが思い当たる生徒も、1人浮かぶ。

 

善意でも悪意でもなく、ただの反射。しかし、社会性に欠ける言動になることもあり、結果当人も苦しんでいることがある。

 

このこと自体は医者のコメントでも簡単に読める話だが、当事者の感情や心中が乗ったものを読むと、受け取り方がまた変わってくる

 

そう思ったので、今日ふと、授業中についついポンと発言してしまうことが多い生徒に、「その自覚はあるか?」「抑えようとしたらどうなるか?」等々尋ねてみた。

 

すると、「わかってるけどマジで口をついて出てくる」「気付いたら喋ってて、人に言われる」という話が返ってきた。そこに善悪は無く、無意識での反応だったのだ。

 

これらを踏まえれば、僕ができることは”一緒に対策を考えること”に尽きるのではないか。同一化はどうしてもできない。だが、歩み寄ることはできる。

 

今までの、どこか「従え」「我慢しろ」というメタを帯びた関係性をこちらから意図的に壊し、第三の案を作っていく。

 

僕の行動指針が一つ、改めて固まった時間であった。

 

ということで今日はこの辺で。

 

 

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