今日は、自分の過去を思い出すことの、また違った側面の利点について考えてみたい。具体的には、過去の日常を振り返ることで、有意義な気づきを得るという感じだ。
さて。何度目だろうかという話だが、僕は最近、またお酒をやめようと考えている。これまで何度も止めたり再開したりを繰り返してきたが、今回は理由が少し違う。
痛風が出たとか、ダイエットをしたいとか、そういう目的ありきではなく、シンプルに「飲酒に飽きた」というのが一番しっくりくる表現だ。
もちろんお酒を飲むことで楽しい時間を得られるとは今も感じているのだが、年々その代償が大きくなってきており、正直失うものの方が多いような気がしてきたのだ。
例えば最近では、酒を飲むと、翌朝起きられなくなることが非常に増えた。質の悪い睡眠のせいで、寝起きの貴重な数時間が溶けるだけでなく、日中の活力まで奪われる。
酷いときは、エンジンが掛かって身体が動かせるようになるまで、シラフで寝たときに比べて倍以上の時間がかかることもある。
こういうあれこれと引き換えで得られるのが、夜のわずか1時間程度の陶酔感だと思うと、全く割に合わないと感じてならない。
ふと冷静になって「なぜ飲むのか」を己に問うてみても、惰性で続けている以外、特に理由に当たりそうなものは見当たらない。 自分もよくわからないのだ。
―こういう風に、今の自分が持つ24時間の内、悪習慣が占める割合が増えてきた際に有益なのが、過去の自分のルーティンを振り返ることではないかと思う。
今でこそ僕は酒が日課に組み込まれているが、過去の僕はそうではなかったわけで。それでいて、きちんと人生も楽しかったわけで。
あの頃の僕は、何で24時間を埋めていたのか。それを思い返すことの利点を、以下やっと本題に入っていこう。
これなしでは生きられないなら、過去の自分はなんだったのよ。
この状況は、かつてタバコをやめたときに似ている。このときも、自分が払っている金銭や健康というものに対し、得られる娯楽が小さすぎると思ったのが契機となった。
月に6000円前後も払って、なんなら寿命もほんのり縮めながら、自分は得ているものは何で、それは果たして諸々に見合っているのだろうか。
その答えはすぐに出た。否だ。だからこそ、馬鹿らしくなって、特に禁煙外来に行くといったこともせずに、やめることができたのだ。
そしてただの主観的な考えになるのだが、今回も同じ感覚で、お酒をやめられるのではないかと感じている。ただ課題は、やめた結果浮いた時間をどう活用するか、だ。
この設計が中途半端だと、「やっぱりお酒を飲んでいる方がマシかも」と思う自分が出てきてしまう。これは過去何度も繰り返してしまっただけに、身に染みる。
そこでヒントになるのが、過去の僕のルーティンだ。実際、高校生の頃は当然飲酒習慣など無かったのだが、その代わりの何かで1日が埋まっていたはずだ。
では何をして日々を過ごしていたかを振り返ると、すぐに心当たりが浮かぶ。それはゲームだ。今の飲酒の比じゃないくらい、僕はゲームに人生を捧げてきた。
では、酒を飲むのに費やしていた時間を、意識的にゲームのプレイに充てたらどうか。飲み会を2回我慢すれば捻出できる予算で、酒よりは健康的な余暇ができる。
そう思うと、娯楽を無条件で人生から捨てるような乱暴さや抵抗が薄れ、悪習慣をよりポジティブに御せるような気がしている。
このように、過去の自分が日常生活で楽しんでいたことを思い出すのは、現在の習慣を見直す上で非常に役立つと、改めて気が付いた。
例えば、無駄遣いが気になる際もそうだ。かつての僕は、まず安いものから見て、そこから自分の納得する質に至るまで、商品を見ていくことが多かった。
しかし最近は、そういう工夫をしなくなった自分に気付いている。結果、無駄とは言わないが、無工夫で多くの金を溶かしてしまったのではないかと、猛省している。
こんな風に、過去の自分の”暮らし”を思い出すのは、巡り巡って今の自分にとって良いヒントを与えることが多い。側は変わっても、本質まで変わることはまずないからだ。
となると、未来の自分が過去の自分を活用できるようにするために、今この日記を続けることにはそれなりの意義があると、改めて感じている。
もちろん途中で飽きたり、何か予期せぬ事情で書けなくなるかもしれないが、可能な限り続けていきたい。 最後は謎の決意に着地したが、今日はこの辺で。