高校生から大学生の頃にかけて、僕はあまりにも未熟である自分がとても嫌で、なんとかして胸を張れるような人間になれるように向上させたいとずっと思っていた。
今思えば叶うわけが無い片思いに気付けなかったこと。詐欺メールに血の通ったコミュニケーションをしそうになったこと。無知であることがたまらなく恥ずかしかった。
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だがそこから何年も経った今、そういう風に未熟である自分を責めようという気持ちは、かなり薄らいでいる。諦めたというより、受け入れたという感覚に近い。
未熟なのは当たり前だ。ではどうするか。そう考えたとき、答えはいつも同じで、「じゃあ学ぶか」という一言なのである。
かつて僕が知りたくて仕方なかった、人間の思考に関する部分。そこを深掘りできることを喜びと思いながら、今週もコツコツと読んでいこうと思う。
- 5月13日(月) 部分だけに効く薬は無い。
- 5月14日(火) 恐怖症ができるまで。
- 5月15日(水) 不安から意識を反らす。これは悪いことでもなんでもない。
- 5月16日(木) 不安はトレードオフ。
- 5月17日(金) 感情というかまってちゃんをどう御すか。
- 5月18日(土) 短期の改善≒依存症そのもの。
- 5月19日(日) 依存症の意味を履き違えない。
5月13日(月) 部分だけに効く薬は無い。
不安を鎮める手助けをする薬は、臨床試験で効能が確認されたものに絞ってもいくつか存在するそうだ。
脳の機能のうち、不安や恐怖といったネガティブなものを司る部分を沈静化するには、GABAと呼ばれる部分を活性化すればいい。
ただしリラックスという感情を生む部分を活性化すると、感情全体がどこか弛緩し、集中が困難になるのだという。
不安だけに作用する方法は無い。その諦めというか真理は、むしろとても大切なのではと、今はふと思わされる。
5月14日(火) 恐怖症ができるまで。
恐怖症はなぜ起きるのか。これは、脳が特定の対象について、過激な学習を深めたことが原因とされる。
例えば蜘蛛が嫌いな人にとっては、部屋の壁にハエトリグモが一匹居ることすら恐怖となる。
ただし実際のところ、この際のプロセスは、「蜘蛛がいる➡️怖い」の間に、結構バグったものが挟まれているそうなのだ。
「蜘蛛がいる➡️血の気が引いて心拍数が増している➡️つまり身体が恐怖を覚えている➡️なるほど、蜘蛛は恐怖の対象なのか➡️怖い」という風に。
蜘蛛が怖いというより、蜘蛛を見た際に身体が恐怖のリアクションをしているから、蜘蛛は怖いものなのだと脳が定義した、という話だという。
頭が混乱しそうだが、こう考える方が僕は納得感が強い。理不尽な恐怖は、こうやって醸成されていくそうだ。
5月15日(水) 不安から意識を反らす。これは悪いことでもなんでもない。
不安は鎮めるというより、そこから意識を逸らすことが大切。その基本を守っていれば、オリジナリティ溢れる対策も考案可能という。
例えば何か冷たいものや熱いものを握り、その感覚にひたすら意識を向けてみる。特定のアイテムの数を意識的に数える。そうすることで、不安から意識をズラすのだ。
あるいは適当な語句を頭に思い浮かべ、その文字に対応する別の言葉を探していくのもオススメだという。
例えば「パジャマ」という言葉を浮かべ、それぞれの文字で始まる動物の名前を考えてみる。
パンダ、ジャコウネコ、マントヒヒ、という風に。これを繰り返すと、不安は軽減されるらしい。
今度試してみようと、ちょっと思った。
5月16日(木) 不安はトレードオフ。
不安や憂鬱は、皮肉な話だが、僕らの脳がここまで発達したからこそ生じてきた問題という捉え方もできる。
本来気にしなくていいはずの未来や過去を考えられるからこそ、その引力に引きずられて、不安なり憂鬱なりに変化する。
本当に不安や憂鬱を無くしたいなら、いっそ脳を退化させるか、世界をこの上なく恒常的なところにするしかない。
だが世界の本質は万物流転だ。そして今さら僕らは退化などできない。不安も憂鬱も、分解不能なパッケージなのだ。
それに抵抗するのはただの徒労なので、もっと今以上に、不安や憂鬱を自分と同一視するような、そんな考え方を身に付けたいと思った。
5月17日(金) 感情というかまってちゃんをどう御すか。
少し意外だがとても納得した話を読んだ。不安や警戒を強めてしまう最悪の考え方とは、それらの否定なのだそうだ。
不安、警戒、関心は、全て本能からのメッセージであり、なにか意識に上ってきていない懸念があってのリアクションなのだ。
それを一切解決せずに否定し続けると、気づくまでひたすら、メタからの声は増幅し続けていく。
さながら静かにしろと怒鳴られた子どもが、より激しい癇癪を起こすようなものだ。不安や警戒は、認めることが始まりだ。
受け流すのもなだめるのも、その起点にはまず「認める」がある。油断すればすぐ忘れそうな教えなので、改めて気を付けようと思う。
5月18日(土) 短期の改善≒依存症そのもの。
メンタルケアは長期戦を通り越して、一生終わることのないルーティンのようなもの。
本来そう構えておくべきなのだが、苦しいときほど僕も、より即効性のある方法を探して、それにしがみつく傾向があるように感じる。
例えば合法なモノだと、酒やギャンブル。非合法だと、それこそドラッグ。即効性の在るものは有形無形さておき、やはりクスリなのだ。
そしてそれに頼りっぱなしになり、手放せなくなることを、「依存」と呼ぶ。メンタルのコリとして、最も厄介なものの一つだ。
次のテーマは、この「依存」そのものであった。この観点からこころをどう解きほぐしていくか。なかなかに楽しみである。
5月19日(日) 依存症の意味を履き違えない。
スマホ依存症、ゲーム依存症、SNS依存症・・。この世は意外と依存症で溢れており、そういう意味では、なんなら依存症に罹患していない人はこの世に居ないのではないか。
筆者はそういう風に、依存症自体の定義を軽んじることには警鐘を鳴らしている。ただハマっているだけという状態を、依存症と呼ぶべきではないと看破しているくらいだ。
例えば僕は魚釣りが大好きで、一度スイッチが入れば、6時間くらい平気で釣り竿を操作し続けられる。そんな日が連続したら、願ったり叶ったりというくらいだ。
では僕は釣り依存症なのかと言えば、鼻で笑って終わりである。単に好きなだけだからだ。別に日常生活に異常は出ていないし、断ったところで精神は崩壊しない。
だからこそ、アルコールといったガチの依存症の人は、それこそ本当に病的な状態にあるということであり、「だらしない」で片付けるのはあまりにも酷なのだ。
口にする言葉には重々気を付けねばならないと、身が引き締まる思いであると同時に、大抵のことは一過性の熱中に過ぎないという考えは、救いにもなると思った。
では今週はこの辺で。