ここ最近(といっても20年以上)、いわゆる3Kを目指すようなトレンドはなりを潜め、個性を突き詰めるような生き方が主流となっている気がする。
2010年頃にはリーマンショックも発生したが、その際は「大きな組織から独立して、自分らしく生きよう」ということで、ノマドワーカーという働き方が流行った気がする。
このムーヴメントは、独立と書けばカッコいいが、大体は同時に孤立を意味しており、いわゆる”つながり””ぬくもり”が軽んじられることにもなったように思う。
そしてコロナ禍を経て、人は再び、”つながり”を強く求めるようになったのではないか。ただし、自分にとって必要の人のみ、という但し書きを付けて、だ。
だからか、一時期鼻で笑われていた「人望」という言葉が、急にその重要さを増しているように僕は感じている。
それに纏わる教えをまとめた本もいくつか読んできたのだが、その内いくつかのヒントにおいて、「ガチやな」と実体験で学んだものがある。
それは言葉が強いが、どちらかと言えば被害者側として学んだことだ。せっかくなのでそれを、ここで書いておく次第である。
これは「応援」なのか、「金を取られただけ」なのか。
昔、大学の後輩たちにお願いされて、遠征の旅費にカンパをしたことがある。正直安くはない額だったが、楽しんできてくれるならまぁいいかと、そう思って渡したのだ。
もちろん、そういう無償を前提にした支援ではあった。だが時間が経つにつれ、自分の中に不思議な感覚が募ってきたものだ。
「俺のお金は何に使われたんだ?」「どんな活動をあいつらはしたんだ?」「結局、楽しかったんだろうか?」等々。
このとき心底悟ったのだが、応援をした人は、支援した人のその後をきちんと知りたいものなのだ。それを怠られると、体よく金を取られたと、正直思われかねない。
「夢と金」にも、「支援されたお金をどう使ったかといったことには、強い説明責任がある」といったことが書かれていた。実際に”受ける”側になって、よくわかった。
僕が誰かに助けてもらったときは、くどいくらい感謝の気持ちと、活動報告を伝えよう。今もそう、強く意識している。
「別にいいですよ」ばっかりだと、何故か不満が溜まる。
これは結構意外な話だが、親切にしてもらったことに対して、こちらからのお礼を”断られる”と、なぜだかかなりもやもやする。
実用書・ビジネス書には、「とにかく貸しを作ることが大事だ」と書かれているものだが、実は器が大きい人ほど、時にはそれを返してもらっている。
実際科学的にも、貸しを作って一切お礼を貰わない人ほど、不思議とナメられたり、恋愛においてどうしても良い人で止まったりと、不都合が大きくなっていくそうなのだ。
僕もどちらかと言えば貸しを作るのに頓着しない(忘れちゃう)タイプなのだが、例えばコーヒーの差し入れやお土産など、喜んで受け取ることを心掛けたいと思う。
頼まれた方が、人は嬉しい。
人に依頼を出すと嫌がられる。そう危惧する気持ちは、僕にもある。だが不思議なことに、くそみたいな雑用や丸投げじゃない限り、実は依頼された方が、嬉しいのだ。
このことは「最強の働き方」「超報復力」等でも指摘されていたが、実際に自分がそう感じたのもあり、すごく腹落ちしている。
これは、頼ってもらえているという感覚と、それによってより大きな集団や、他人に貢献できたという実感は、本能的に報酬とカウントされるという話らしい。
実際、多くの仲間に慕われる人ほど、周りに依頼を出しまくっているように思う。そして手柄はその人にちゃんと上げて、しくじれば一緒にフォローするのだ。
労働力のフリーライドではなく、その人の市場価値を高めることにも意識を向けて、積極的に仕事を手渡していく。それが狙ってできる人は、もはや聖人だと僕は思う。
終わりに:人望を軽んじた末路。
応援文化に対し、「高い!」「詐欺だ!」「宗教だ!」と噛みつく人がいる。人間とは不思議なもので、価値観が同じなら、自然と集まり、コミュニティが作られる。
そうして大きなグループが生まれた。仲間はオンラインにたくさんいる。皆で応援に対し異を唱え、それ自体に大きな充実感を覚える日々。
そこに属する人の身内が、倒れたとしよう。手術代は絶対に出せない高額。どうやってそれをねん出するか。そうだ、周りから応援を募ろう。
そう思ったその人が、応援をそのコミュニティにお願いしたらどうなるか。「高い!」「詐欺だ!」「宗教だ!」と噛みつかれてオシマイだ。
自分の価値観に合わないものを叩くのは簡単だ。だが、どんなものにもリスクは存在する。これはその端的な例だろう。
僕はたくさんの人の囲まれながら暮らしたいなんてつゆほども思わないのだが、だからといって人望や人徳を軽んじるつもりは毛頭ない。
そういう意味でも、何をしたら”嫌われるか”の勉強は、日頃から敏感に重ねたいと思う。では今日はこの辺で。