精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「切れ者」≠「孤独」ということに、今更気付いた。

切れ者」と呼ばれる方々がいる。主にややアウトローなキャラが主人公の漫画やゲームにおいて、手強い敵として登場する人物に多いタイプだと感じる。

 

なんとなく「クールで頭がいい」という印象を持つが、辞書で引いてみると、定義は以下のように紹介されていた。

 

1 頭の回転が速く、物事をてきぱきと処理する才能のある人。敏腕家。やり手。「社内きっての—」

2 「切り人 (びと) 」に同じ。 「今内務の—の白井なんかひどいそうです」〈蘆花・黒潮


知能指数の高さというより、即断・即決といったニュアンスの方が強めに出ている印象だ。そしてそれに付随して、カリスマ性もそこから感じられる気がする。

 

どちらかと言えば、切れ者」スタンスのキャラはいわゆる孤高の存在であり、一匹狼として名を轟かせる、そんな個としての力量がある者を勝手に想像していた。

 

だが、特にエンタメ作品による人物描写を見ていると、その前提は違うどころか、実は真逆という感じを抱き始めている。

 

今日はそんな、実は厨二病全開の話を、記事にまとめてみたいと思う。

 

 

切れ者”が”切れ者”になれる所以。


切れ者のキャラが切れ者であると感じるシーンを思い浮かべると、その場面に共通点がある。それは、誰かと綿密な情報網などを張り巡らせているというものである。

 

言い換えれば、実は陰でコミュニティを形成し、その構成員とは、色んな事情があれど密に繋がり、連携もしっかりしているケースがほとんどなのだ。

 

例えば、電話で不穏な指示を出したり、報告を受けたりしているときを考える。なんでもないシーンだが、これは同時に、協力者や内通者がいる、ということだ。

 

そうやって情報を集め、ターゲットに悟られぬままに策略を進めていく様は、プロの棋士が序盤の時点で、終盤に効いてくる一手を指す感じに凄く近い。

 

逆に、自分一人だけで頭を使い、誰かを罠に嵌めるという構図は意外と小物であり、策士策に溺れる例として、大体悲惨な目に遭うものだ。

 

切れ者は、意外とコミュニティを持っている。逆に、コミュニティを持たぬ者は、どこまでいっても優秀なコマとして使われる。

 

架空のキャラクターも、実在するグレーゾーンの住人も、切れ者ほど孤独とは程遠い。これは物凄く興味深い話だと、僕はひそかに興奮している。

 

粗暴なだけ、人見知りなだけ、頼れないだけ。

 

個として強い存在は、たまにいる。だが、ある程度のランクを超えていると、本当に独りぼっちな強者は、姿を消してくる

 

極論だが、ギャングの構成員は1人1人が強い暴力性を持ち、喧嘩が強いはずなのだが、それでもコミュニティを構成し、統率し、抜きん出る者が現れる。

 

そのトップもまた残虐性が突出しているのは前提として、頭が切れる部分も必ず備えているように、僕は感じている。やはり、集団として他者を動かすことに長けている。

 

その逆はどうだろう。個として徹底的に力を蓄えて、集団に対して喧嘩を売る。なるほど、YouTubeでよく流れてくる復讐モノの漫画でありがちなストーリーだ。

 

これは「孤高の獅子」と言えば聞こえはいいが、つまり粗暴なだけ、人見知りなだけ、頼れないだけ、と評する余地も残ってしまう。

 

そして不思議なもので、こういった孤高のキャラクターも、なんだかんだで仲間が集まり、真の意味で一人であることは、実はそうそうないように思う。

 

ここで自分を顧みる。僕はどうだろうか。自分一人で抱え込んで、自分のコミュニティを矮小化させていないだろうか。構成員と交流しているだろうか。

 

慕われるヤクザの兄貴分は、時として若い衆に混ざって安酒を飲みに行くように、こういう人間臭いところが、自分にあるだろうか。どこか疑わしいと思えてくる。

 

そして「頼」という言葉を調べているとき、ふと面白い(そしてシニカルな)言葉に出会った。

 

言葉    無頼漢
読み方    ぶらいかん
意味    無頼な男。ごろつき。ならずもの。

 

誰かを頼らず、頼られもしない男を、人はカッコイイと評すのではなく、「ごろつき」として蔑称チックにラベリングするのだそうだ。

 

もっと有機的に繋がったコミュニティを、切れ者こそ意識的に形成する。僕は無頼漢にはなりたくないし、なってはならないのだ。そう、意を強くした。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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