精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

なぜ今まで気付かなかった?問題を解く➡〇付けをするだけ、という時間の不毛さ。

時折、教員の方が書いた本を読んでいる。いわゆる現場に身を置いている方々の言葉と覚悟は、教員ではない自分であっても、すごく刺さるものがとても多い。

 

僕は教室運営・生徒制御をメインに色々知りたくて読んでいるのだが、その中に一つ、問題演習に関する章があり、そこの教えに1つ、すごく引っ掛かるものがあった。

 

それは「理解できない」といった反発ではない。「え、なんで今まで俺、このことに気付いていなかったんだろう・・・」という盲点を突かれたことへの驚きだ。

 

具体的には、問題を解く➡〇付けをするだけ、という時間の不毛さに、突然気が付いたという話だ。今日はその驚きにドキドキしたまま、記事を書き進めてみたい。

 

 

間違ったアウトプットばかりが刻まれる!!

 

問題を間違えたとき、大体どういう流れでそれは進んでいくのか。なるべく文字に起こしながら考えてみたい。

 

そういう指示をしていれば話は別だが、大体はノートではなくテキストに解く(解かせる)ことが多いと思う。そして、問題を間違えたら、どうするか。

 

別個に解説を入れて、「これがこういう理由で正解はこっち」と”伝えて終わり”ではなかろうか。この流れ自体、一見特にエラーが起きているようには見えない。

 

だが、脳への刺激という面で考え直すと、どうだろうか。また違ったプロセスが見えてくるように僕は感じる。

 

実際、この生徒の例で言えば、「間違った答えのアウトプットが1回、正しい答えのインプットが1回」という風に、学習として行われたことを分解できる。

 

ところで、脳の仕組みや働きを考えると、インプットよりアウトプットの方が何倍も学習効果が高いと言われている。これ自体は有名の話だ。

 

となればこの時間にやったことが、間違ったアウトプットと正しいインプットの1回ずつであるなら、脳に刻まれる教えとしては、”間違っている方”が強くなると言える。

 

例えば「make」の過去形を「maked」と答えてしまい、「正しくはmadeだよ」と習った子は、刺激の度合いとしては「maked」の方を覚えてしまうという話だ。

 

やったミスがなかなか直らないのは、その子の特性や学習不足という面より、最初期の段階にバグがある可能性が高い。この盲点、本当に僕は気付いていなかった。

 

授業内のアウトプットが、間違った情報を出したままで終わる。これをカバーするシステムが宿題等なのかもしれないが、そこでまた間違えたら、更に負の方へ強化される

 

自分の思考が停止していた部分を、予想外のタイミングではあるがドンズバで指摘された今、このバグをどう取り除くか、授業の見直しをしなければいけないと感じている。

 

教えるのは、間違えさせないため。

 

間違いを極端に嫌う子がいる。診断が出たという話は聞いていないが、試し行動というより、ASD的な何かがあるのではないかと、僕は勘ぐっている。

 

具体的には、問題を解いていたら1問ずつ合っているかどうかを尋ねてくる。最近は少し我慢のレベルが上がったが、それが違っていたら、途端に不機嫌になってしまう。

 

それが連続すると、癇癪を爆発させて泣き叫び、手が付けられなくなってしまう。そうでありながら、こちらがヒントを出すと「見ない!」と突っぱねて、また間違える。

 

自分に対するプライドが高いのだが、技術がそれに伴わない。感情の成長も未熟なため、すぐに爆発してしまう。正直、かなり手を焼いている。

 

とはいえこれは年齢的なモノも大きく、小学3~4年を過ぎてくると、ここまで露骨に拒否する例は、段々と聞かなくなってくる。(昔いたけど)

 

ではそれをひたすら耐えながら待つのかというと、そうもいかない。ぶっちゃけ癇癪を起こされると、他の生徒の大迷惑になる。これは現実問題、そうなのだ。

 

そのためには、工夫されたシステムを構築して、そもそも「間違えた」という感想を本人に抱かせないことが大事だと、その本では説かれていた。

 

指導はすべて、間違えさせないためにある。そう言い切っているほどだ。これ以上自己重要感を殺させないためにも、正解・理解という成功体験はマストなのだ、と。

 

その子は正直、合っていたら「偶然」と言って、間違っていたらそれをトンデモナイ屈辱と受け止めて慟哭している感じだ。自分の成長を認められないのを感じる。

 

こういう価値観が自然と醸成されたというのは、なかなかに考え辛い。塾以外の家庭や学校、友人との会話において、何かその子にとってトラウマなことがあったのだろう。

 

とはいえ僕らにできることは、治療や改善ではない。第二・第三のその子を”この塾で生まないこと”だ。そして同時に、全体としての雰囲気を守ること。

 

もしかしたら今後、その子に一旦休塾を勧めるかもしれない。お金を頂戴して等しくサービスを提供しなければならない私塾である以上、このドライな判断も時には要る。

 

僕にできるのは対症療法が限界だ。根本的な治療というより制御の練習には、もっと専門的な機関に頼った方がいい。そんなことを考えている。

 

問題を解く➡〇付けをするだけ、という時間は、不毛なだけじゃなく、その子の心に薄くない影を落とすかもしれない。そのことは重々承知しておこうと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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