精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「白黒思考」の定義を読んで、自分の思考がセトモノだと改めて実感した。

相田みつを氏の詩で、昔からずっと心に残っているものがある。それは、「セトモノ」という題名のものだ。

 

セトモノとセトモノと
ぶつかりっこすると
すぐこわれちゃう
どっちかやわらかければ
だいじょうぶ
やわらかいこころをもちましょう。
そういうわたしはいつもセトモノ。

https://ameblo.jp/secology-mama/entry-10768225180.html

 

独特な文体も、そのメッセージの深さも、記憶に残っている理由として申し分ない。実際、相田みつを氏を知らなくても、この詩なら知っているという人を散見する。

 

だがこと自分においては、それら以上に、僕もセトモノだなぁという共感が理由で、すごく頭に残っているという感じだ。

 

そんなことをなぜ急に書いたかというと、ASDを調べていく中で知った「白黒思考」という言葉に、どこか響くものがあると感じたためだ。

 

今日はそんな、セトモノゆえに思うことを記事にしたためていく。

 

 

「白か黒」「0か100」「~するべきで、そうでない俺に価値はない」

 

この項のタイトルは、いずれもASDの特徴的な価値観とされつつ、僕自身も結構自分の中に認めていると実感している考え方だ。

 

恥ずかしながら、僕は未だに、異論と個人攻撃を切り離すことが凄く苦手だ。僕個人ではなく意見に対する質問を言っているのに、どうにも僕への非難に聞こえるように。

 

頭の中が凄くもやもやしてしまい、スッキリしない感覚が消えない。それを消すには、言われたセリフを文字に起こして、客観視することで、やっと果たされる。

 

こういうめんどくささを己の内に生じさせているのが、いわゆる【白黒思考】とされるものだ。0か100、~するべき、そんな考え方の偏りが、これの特徴とされる。

 

恐ろしい話だが、当人は自分がこういう思考をしていることに、基本無自覚である。かくいう僕も、自分がそういう考え方をしていると気付いていなかった。

 

ではどう思っていたかというと、皆そう考えているんだろうと、そう捉えていたのだ。というより周りの人の価値観を観察したことも無いので、気付く要素が無いと言える。

 

例えばアメリカ人はすごく陽気だと言われる。だがそれは、あくまで日本から見て、の話だ。当のアメリカ人たちは多分、「普通だよ」と思っているのではないか。

 

それと同じで、僕は僕の思考がそういう風に偏っていることを、全く意識できていなかった。何なら、客観的に意識できたのは、ここ最近の話なのである。

 

ということでここからは、自分が白黒思考をしていることを把握するために行ったワークを、簡単に紹介してみようと思う。

 

「理想が高い」「完璧主義」「真面目」では説明がつかない拘り。

 

そのやり方は、とてもシンプル。とにかく頭の中の考え事を書き出してみるということに尽きる。ただし、そこからもう一つ自問自答を深める必要がある。

 

例えば今日、低学年向けコンテンツで、遂に通塾お断わりレベルにまで行儀が悪化した生徒がいる。この事態に関して、僕のメタは何を感じたか。それを言葉にした。

 

自分でもちょっと笑ってしまったのだが、「即辞めさせる」「自分の指導力不足を反省して、制御法を学ぶ」の2つが頭に浮かんできたのだ。これらは、いずれも極論だ。

 

前者は他責100%で、後者は自責100%である。綺麗に白か黒であり、自分の思考ってここまで極端なのかと、こうして言葉にして初めて実感し、ただ驚いている。

 

尚、ここに付随する思考は他にもあると気が付いた。それは、環境と他者に関するものだ。それらに関しても、僕はファジーというか、そう解釈することが困難なのだ。

 

少し病的に聞こえるかもしれないが、それらについての僕の考え方について、ここから正直に書いていく。

 

さて。先ほどの例(やんちゃでは片付け切れない子がいるケース)だと、僕は同時にこんなことを考えてしまう。

 

「制御しきれない自分は無能だと思われただろうな」「その場にいる生徒は全員不満を持っただろうな」「他の講師は強いストレスを感じただろうな」

 

―つまり、あの時間の俺は、大人として、講師として、0点だな。価値のない存在の

 

・・・・冗談抜きで、本気でこう考える。どうしても、「いや、いうて70点くらいの制御はできたでしょ」とか、「そんなに周りの人は気にしてない」ということを思えない

 

僕が勝手に、他人が自分に求めている理想像をこしらえて、それに追い付けない自分を追い詰めている。その構図はわかっていると思っていたが、実はわかっていないのだ。

 

それこそ、インポスター・シンドロームを抱えている人と全く同じだ。テストで90点を取っても、失った10点が気になり、満点じゃない自分を認めてあげられない

 

僕は、自分目線だけじゃなく、他者目線、環境目線から、自分に白黒思考を押し当てている。0点を取った僕を責めるのは、僕と他者と環境の全てなのだ。

 

一方、当たり前だが、100点を取ったと自分を褒められることは滅多にない。僕はただただ自分を追い詰めて、消耗し続けるだけなのだ。よくいままで生きてこれたな・・・。

 

こんな風に、0か100しかない僕の判断基準。好かれるか、嫌われるか、認められるか、見下されるか、落第か、主席合格か、しかない。そんな不自由な世界に生きている。

 

100点は100点だが、99点以下は0点に等しい。そしてそれはみんな、自分にそう思っている。そんな風に僕は思っているが、これはもはや呪縛だ。救いなどどこにもない。

 

”これはなぜだろう”と悩んだ時期は、実はある。だがそれが仮に、「特性だから」というのが答えだとしたら、実はかなり救われるような感じを僕は抱く。

 

これこそ本当の”仕方ない”であり、遺伝子に刷り込まれた個性である以上、絶対に0にはならない。どれだけ頑張っても、瞬きを止められないのと次元は同じだ。

 

他者不信でも、自己肯定感の欠如でも、どれでもなく、”特性だから”。これを受け入れて、あらゆることの起点に据えた方が、僕は改めて幸福になれるように感じている。

 

今の自分に移植したい「中道」の考え方。

www.nichiren.or.jp

 

特性だから、仕方ない。周りの人が俺に配慮をすべきだ。こんな暴論を振りかざす気はさらさらない。遺伝子レベルの話に立ち向かうには、また違ったアプローチが要る。

 

放っておいたら、僕は白黒思考をする。これは後天的に獲得した癖で片が付く問題ではない。人間に生まれた以上、成長すると二足歩行をするようになるのと似ている。

 

本能にインプットされた歩行という動作を活用しつつも、鍛錬によってその使い方を洗練する。その果てに、空手の型や短距離走のフォームがあるようなものだ。

 

では僕はこの白黒思考を活用し、どう捉え直すことで、今の自分には存在しない50点や60点の世界を移植すればいいのだろうか。

 

そのヒントになりそうなのは、やはり仏教にあった。それは「中道(ちゅうどう)」だ。

 

まだ勉強の入り口なので何一つ細かいことは深められていないのだが、僕自身の知識の整理も兼ねて、簡単にまとめておく。

 

「中道」とは、文字通り「中央の道」を意味し、極端な行動や思考を避け、均衡と調和を保つ生き方を指します。

 

これは、過度な自己抑制や苦行を行うことなく、また、放縦や過度な欲望に走ることなく、心地よいバランスを保ちながら生きることを意味します。

仏教の教え「中道とは」〜バランスのいい生き方〜 | 浄土真宗 慈徳山 得蔵寺

 

実践においては「中道」が説かれる。「中道」とは、単に二つの極端な立場の中間をとるというのではなく、二つの極端から離れた自由な立場、矛盾対立を超越している立場を意味する。

 

 当時のインドには、苦しみから解放されるために、どのような実践方法をとるかについて、さまざまな立場があった。

 

ローカーヤタ派のように快楽主義に立つ思想もあったが、大方はいかにして欲望を制御するかに関心があった。

 

欲望が苦しみの原因と考えられたからである。欲望を制御する方法として、さかんに行われたのは、肉体の苦痛を耐えしのぶ苦行(タパス)である。

 

ブッダも、悟りを得るまでの一時期、苦行を実践したことがあるが、後に苦行の無意味さをさとり、瞑想すなわち禅定の方法を選んだとされる。

 

このことから、ブッダは快楽主義でも苦行主義でもない「中道」をとったといわれる。そして、「中道」が修行者のとるべき道として説かれる

インド思想史略説

 

この考え方が何を説きたいのかというのには議論があちこちで起きている感じだったが、僕が雰囲気として感じ取ったことを載せておく。

 

それは、自分が白黒思考をしていることを前提に据えて、極端な選択肢を2つ浮かべたら、その真ん中に該当する選択肢を考えるようクセづけることである。

 

例えば、今日あった出来事をまた引き合いに出すなら、他責100%の「即辞めさせる」と、自責100%の「自分の指導力不足を反省して、制御法を学ぶ」の間を探るのだ。

 

他責と自責が50%ずつ混ざれば、どんな選択肢が浮かんでくるだろうか。「別室に読んで、続けたいかどうか話をする」「ご家庭に事情を説明してやり取りする」等々。

 

極端と極端を把握しつつも、その両方を踏まえつつ、それでいてどちらにも偏らない方法は何か。そういう問いを自分に挟むことで、中道の選択肢が浮かぶのではないか。

 

そしてそれでも良いと自分を受容することで、こういった全か無かといった極端な考え方を、段々とポジティブに活用できるようになってくるのではないか。

 

もちろんこれは、最初は全く上手くいかないだろう。だが、それでも成長せねば!と思うことも、成長ゼロでもいいかと諦めることも、やはり白と黒だ。

 

昨日より少しは良ければそれでいい、或いはトレーニングを行えていればそれでいい。そうやって中道を探りつつ、自分の特性と向き合い続けたいなと考えている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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