精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

実は、「わかりやすい!」と言われても、個人的にはあまり嬉しくないという。

昔どっかで書いた気がするので、時間差のネタ被りっちゃネタ被りなのだが・・皆様は、「わかりやすい!」と生徒や保護者からコメントされると、嬉しいだろうか。

 

僕の場合だと、別に悪い気はしないのだが、だからといってそれのために頑張ろうという気にはならない。実を言うと、さほど嬉しくない、というのが本音である。


特に駆け出しの講師は、如何に生徒から「わかりやすい!」と言われるかを追求するように僕は思う。それ自体は、通過点として捉える分には、悪くないだろう。

 

僕もそういう時期があったが、今はそれを最終目的に据えるのは、あまりにも本質とズレているという危惧を抱いている。

 

今日は自分の哲学(あるいは偏屈さ)の理解に繋がりそうなこの価値観を、別に推敲せず言葉にしてみようと思う。

 

 

「わかりやすい!」≒「野球上手ですね!」

 

説明がわかりやすい講師・先生に「わかりやすいですね!」と言うのは、どこかプロ野球選手に「野球上手ですね!」とコメントするのに似ていると思っている。

 

それ自体が売り物なので、正直そのコメントに対し表面上は喜んで受け取りつつも、「いや、普通のことだけどな・・」と僕は感じる。ストイックすぎるのかもしれないが。

 

それに、「わかりやすい」ことを手放しで喜べない事例を知っているというのも大きい。それは、ファインマン効果だ。

scrapbox.io

 

乱暴に要約すれば、「わかった!ことは、できることを保証しない。むしろできる!と勘違いさせて、今後の学習意欲を削ぐことにもつながる」といった感じだ。

 

それを分かっているからこそ、大手予備校等においては、わかりやすさを全面に押し出しつつも、システムの中にテストがあったり、大量の宿題があったりするのだと思う。

 

これを考えると、わかりやすいこと自体を嬉しいこととして受け止めるのは別にいいかもしれないが、それを一つの指標・目的にすると、思い切りズレていると思うわけで。

 

野球選手が野球の技能を磨く目的は、上手だと褒められることではなく、試合で活躍し、チームを勝たせることにあるのと構図は全く同じだ。

 

僕らの授業は、成績向上に繋がっていないといけない。そして授業自体は、別に成績を伸ばさないというのは、講師における共通認識だ。

 

シビアかもしれないが、僕は大体講師歴3~4年目から、自然とこう思うに至っている。繰り返すが、性根が真面目過ぎて、ただただ窮屈なだけともいえるのだが・・・。

 

僕が言われて嬉しいこと。

 

そんな僕は、何を言われたら嬉しいのか。それは、特定のセリフではなく、学びに対して良い驚きを、生徒が感じてくれた際に発するリアクション全てである。

 

具体的なセリフで言うなら、「確かに!」「マジや!」「すげぇ!」といったところだろうか。これは毎度毎度狙っていくにはとても偶発的な反応なのだが。

 

例えばこないだは、「蹴るってどうやって書くのかマジでムズいっす」と悩んでいる中学3年生がいた。

 

その子に僕は、「就職の『就』って書ける?書けるね。それの左に『足』っぽい部首つけてみ」と助言した。するとその子は、「マジや!!!」とすごく感動していた

 

「なんだ、そんなことでw」と冷笑する方もいそうなほど些細なエピソードかもしれないが、この驚きはかなり大事な要素だ。多分その子は、その字を一発で覚えただろう。

 

何より僕自身、自分が勉強や学習にモチベーションを見いだせた際は、何かしらの驚きを感じていることがとても多い。

 

実は過去学んだことを別の側面で述べているとか、自分がよく知っている円の面積の公式は、実は微積分から得られているとか。

 

知識の盲点だったところがバチっとつながり、急激な腹落ち感を得られると、人は驚きという感情を覚えるのだろう。そしてそれは、とてもポジティブな刺激なのだ。

 

わかりやすいと100回言われるより、遥かに嬉しいと感じる。皆様はどうだろうか。まぁ、人によりけりだと思うけど。

 

いずれ僕は、それを狙って授業に織り込むことができるようになるのだろうか。そうなりたいと願いつつも、時間が足りないよなと、そんな諦めも感じている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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