30歳を過ぎて何やってんだと思うときもあるが、ここ最近急速に、自分という人間が抱えている課題・バグが、どんどんと”見える”ようになってきている。
自分自身の成長と改善が果たされる量以上に、これまで無知だった歪みが発見できてしまい、ここ数年は何か自分が後退し続けているかのような感覚さえあるほどだ。
そして最近強く意識しながら取り組んでいるのが、僕の価値観である「白黒思考」の是正だ。物事を両極端に考える癖と言ったらわかりやすいかなと思う。
僕はワンチャンという但し書き付きだが、ASDを持っていることから、この白黒思考が特性としてデフォルトで備わっているかもしれない。そんなことも考えている。
この両極端な考え方を意識的に修正し、折衷案、或いは第三の選択肢を考えられるような、そんな揺らぎを持った、器の大きい思考を手に入れたい。
そう思って、認知行動療法から仏教哲学まで色々学んでいるのだが、今日突然、自分がそれぞれ別物として考えていた欠点が、全てバチンと繋がる感覚があった。
題名にもあるが、「期待≒完璧主義≒べきだ思考≒器の小ささ≒人生経験の乏しさ≒不安≒鬱」、これら全ては、同一の何かを別々の側面から語っているのではと思うのだ。
今日はそんな飛躍した結論に、どうにかこうにか論理めいたものをくっつけてみようと、そんな記事である。
完璧で、白か黒しかない思考が生む不幸。
起点は、「完璧主義」という価値観にある。これは100点以外認めない・認められないと思い込む思考の癖だが、これ自体はメンタルにとても有害だとされる。
これと猛烈に相性が良いのが、僕が抱えている「白黒思考」だ。これは自分も含めたうえで、世の中の全てを二極化された指標を基にジャッジする、という感じだ。
これら2つが組み合わさると、100点は成功で、99点以下はすべて失敗という、とても窮屈な考え方が醸成されていく。(特に子供に多く、普通は段々矯正される)
そしてこうなると自然にくっついてくるのが、自他への無責任な「期待」と、それに関する「べきだ思考」である。
例えば、「俺は完璧にしなければならないし、できるはずなんだから、必死に勉強すべきだし、99点以下は失敗とみなすべきだ」という言い回しがわかりやすい。
或いは、「助けられたのならそれに対して感謝の念を持つべきなので、お礼を言うのは当然だ。言わない以上、そいつは人間の屑でしかない」という言い回しも然り。
完璧主義+白黒思考+期待+べきだ思考は、既にこの時点でどこか病的な”カタさ”があることが、文字にすることでまざまざと実感できるように思う。
これ自体は高潔で高尚な考え方・・というより、柔軟性に乏しく、器が小さいと評されても仕方ない考え方だ。何より、言葉を選ばなかったら、とても幼稚である。
これがあると、自分の思った通りにならなかったらどうしようという不安が常に付きまとい、少しでも望む結果を得られなければ、自分を責めて鬱に簡単に苛まれる。
こういう心理的バリアがあれば、当然色々な場に出ることも困難で、様々な活動に挑むことも嫌になり、人生経験が乏しくなっていき、改善の可能性は増々減っていく。
完璧であろうとする姿勢そのものが、あらゆるバグを生み出している。さながら、1つの骨の歪みが、全身の筋肉や関節のコリや痛みの原因になっているようなものだ。
期待≒完璧主義≒べきだ思考≒器の小ささ≒人生経験の乏しさ≒不安≒鬱。
これら全ての要素は、複雑かつ有機的に繋がり合い、相互に作用したり、次々に変化したりと、まるで一つの生命の塊のようになっている。
目には見えないし蝕知もできないが、僕の中に確かに存在する、僕自身の別の意識そのものではないか。そんな不思議さと不気味さを、この塊に感じている。
いわば思考の癌細胞とでも言おうか。それくらいインパクトがある何かが自分の中にあると、ここ最近僕は実感しており、同時に恐怖という気持ちも抱いている。
完璧を壊しながらも、自分をどうやって安心させるか。
この思考の癌を克服するには、どうすればいいのだろうか。途方もない話だが、手術という劇的な手段が使えない以上、丁寧にそれを弱めていくのが良いと思っている。
今取り組んでいるのが、何かを思いついたら、それと対極のことを考えて、それら2つを混ぜた選択肢を意識的に作るというものだ。
僕は、白黒思考が癖づいている。だから頭に浮かんだアイデアや感想は大体、極端だ。だからもう片方の極端を考えて、それを中和するのは、精神衛生上極めて大切だ。
例えば今日も、ちょっと目に余る言動が目立つ子の保護者に、様子伺いをするメールを送るという一幕があった。それに際し、真っ先に僕に浮かんだ思考はこんな感じ。
「これにブチ切れてクレームになったら面倒だなぁ・・」
・・つまり、相手は”一切”こちらの話を聞こうとせず、僕に”全面的な非がある”と言ってくる。そんな可能性を真っ先に浮かべたのだ。
今回、僕が100%悪で、相手は完全に我を忘れる、という想定をしたことになる。ではこれをひっくり返して、相手が100%悪で、極めて冷静な思考をしたら、どうなるか。
これを考えると、こういう想定が浮かんでくる。
「実は親も承知していて、むしろ平身低頭で謝ってくれるという可能性もあるよね」
さて。こっちもこっちで、平和な響きだがやはり極端だ。世の中万事水戸黄門のエピソードみたいなわけないし、善も悪も自責も他責も混ざって、何かしらの合意に至る。
だから現実的な落としどころを考える。
「まぁ向こうもイラついたり不安になったりするだろうけど、これ以上こちらも放任できんからしゃーないわな」
・・というところで、お互いにそれなりのパンチを食らいながらも、妥協点を探るのが自然っしょ、という風に落ち着いてくる。大抵こうなると、自分にゴーサインが出る。
ただめんどくさいことに、返事を待っている間も、「読んだ瞬間怒りが沸点を超えて、冷静になるまで待っているのでは・・」というのに似た不安を感じる。病だ。
と同時に、「いや、仕事中とかで見てないだけだろ。ストーカーみたいでキモッ。」と思う自分もいる。こっちはこっちで病だ。
だから思う。「メールを即答すべきなんてのは、はた迷惑な押し付けだよな。じゃ、待ってる間別のことでもしておくか」と。そしてここまで納得すると、行動には移せる。
両極端を考えて、2つを突き合わせつつ、それでいて建設的な答えを得て行動する。これによって自分の白黒思考を少しずつ少しずつ、上書きしていく。
それしかない。まるで圧倒的に劣勢なオセロを少しずつひっくり返すような気分だ。だが辛抱強く重ねることで、それら全てが一気に逆転できる日が来るはずだ、と。
期待はしないが、そんな日が来ることを頭の片隅に起きつつ、30年以上依存したこの思考を中和すべく、ほどほどに頑張り続けたいと思う。
では今日はこの辺で。