昔から僕は「自信がない」「自信を持て」とずっと言われてきた。堂々と振る舞う芸能人から同級生まで、自信を持った人を引き合いに出され、何度も何度も言われてきた。
そんな日々を何年も過ごした結果、僕は「自信」という言葉が大嫌いになった。「お前には人間として重大な何かが欠落している」と指摘されている気分になるからだ。
だから人に言うことも基本無いし、未だに人から言われたら、少し顔が引きつってしまう。嫌いゆえに、気付けばすっかり、この言葉自体の勉強を完全に止めていた。
ただ、心の底では、自信という考え方は大切だと納得はしている。最後の最後で自分を支えてくれる、行動を生んでくれるのは、根拠なき自信だと思っているためだ。
―と同時に、「根拠が無い自信なんてのは、すごく能天気で愚かなんじゃないの?」という疑義も心に浮かんでくる。この葛藤に折り合いがついていなかったのだ。
そんな風に行き詰まっていた「自信」の解釈だが、今日何故かシャワーを浴びているときに、「もしかしてこう考えたらしっくりくるのでは?」というヒントを閃いた。
そしてその気づきが、すごく自分の心を軽くしているという実感もある。バイアスの可能性も高いが、何か大切なことが言語化できないまま腹落ちしたようである。
今日は「自信」という言葉について、今現在の僕の解釈を、つらつらと説明してみようと思う。では以下、本題である。
日本語の「自信」に、僕は異物感を覚える。
「自信」という日本語に、僕は異物感というか、嫌悪感に近い感情を抱く。その理由は何なのか。まずは、辞書で改めて意味を確認してから、考えてみよう。
[名](スル)での能力やなどを信じること。の考え方やが正しいと信じて疑わないこと。「—を失う」「—満々」
- 「悉 (ことごと) く粋を尽くしていると—している」〈
・ 〉
やはり、喉に刺さった魚の骨みたいな違和感がある。言葉を選ばずに言えば、世間知らずの思考ではないかと思えてならないのだ。
雰囲気としては、この風刺画がぴったりだと思う。↓
多くのことを学び、知り、経験することで、視野や広くなり、視座は高くなる。あらゆる可能性を考慮に入れざるを得なくなる。つまり、IFがたくさん見えてしまうのだ。
自信とは、その中でも最善の可能性を自分は引けるという思い込みに過ぎない。くじの本数が2~3本ならそれも可能だが、億を超えたら引けるわけが無くなる。
ここまで考えてやはり思ったが、僕にとっては「自信」と「楽観」が同意語という感じで捉えられていることこそが、どうにも腑に落ちない感じを抱かせている。
自信をつけるためには経験値と努力と勉強が必要だが、それを重ねれば重ねるほど、皮肉なことに「悲観的」な観点が強まっていく。いわば、綺麗に反比例してしまうのだ。
だから調べてみた。「自信」と「楽観」は、本当に同じ意味なのかと。すると、少しニュアンスは異なるが、キッパリと「違う」と書いているnote記事を発見した。
これが面白かったので、紹介する。
乱暴に要約すると、自己肯定(自信)のためには、それを裏付ける行動が必要であり、そのためには楽観的な思考というより、物事を過程と捉える観点が大切なのだという。
「なんとかなりますよ!」とだけ言ってヘラヘラし、特に行動も反省もしないのは、自己肯定ではなくただの自己弁護であり、それは迷惑でしかないとも添えられていた。
自分はできる!!という想いの強さを持ちつつ、その途上を柔軟に変えて、失敗はデータを得たと解釈し、行動を継続して絶対に止めない。
真の自信とは、目標を見据え、ポジティブな実験を止めないこと。そういう風に思い切って短く考えると、途端に自分事として、すごく納得しやすいと感じた。
「俺は成功するまで止めないっすよ。まぁ、手段はコロコロ変えるし、採集目的次第では、ゴール自体も変えますけど」というスタンスだろうか。
自信とは、今抱えている問題をいずれ解く自分を信じる、ということと言い換えるべきか。僕にとっては、こちらの方が無責任な響きがしないため、ずっと好きだ。
そのためには、自己重要感や自己肯定感が必要になってくるというのは、理由を考えてもすごくわかりやすい。
結果が出る前であっても頑張っている自分というのを分かっているのは、つまり自分だけだからだ。人から頑張りを褒められなくても、自分を労える。それは自分の仕事だ。
自分自身を肯定できているからこそ、目の前の出来事を実験の一環だと解釈し、成功するまで止めないという自信を醸成することができる。我ながらすごく深いと思う。
―ところで、ふと気付いたことがある。英語で「自信」を調べると、「self-confident」という言葉がある。受験生の頃は全く疑問に思ったことがない単語だ。
ここで気になる。わざわざ「self」をつけないと「”自”信」にならないなら、「confident」の純粋な意味はなんなのだろうか。そこで、英英辞書で引いてみた。
sure that something will happen in the way that you want or expect
訳:その人がそうあってほしい、或いは期待するように、物事は起こると確信すること
この考え方に、何か心当たりがある。冷静に考えると、すぐわかった。これは、今の世の中を高い熱量で駆けている人たちに共通する思考だ。
したいことを考える。それに向けて、今何ができるかをパッと浮かべる。それが果たされるまで、意地でも諦めない。根性論ではなく、手を変え品を変え、取り組み続ける。
全てはプロセスであるのだから、失敗したことも、そのルートの修正に使えるデータに過ぎない。迷ったり悩んだりする時間は無駄だという意見があるが、今なら納得だ。
迷ったり悩んだりしている時間とは、目先の失敗で得たデータを分析せず、ただ自分のところで抱えている状況だ。とっととそれを活かした行動に転化せねばならない。
仮にそのデータで足りないなら、失敗上等でもう一度挑んでもいいし、先行事例を別に研究してもいい。いずれ変わる、変えられる未来を、自分が信じる。
―ここまで書いて自然と書き方が変わったのに驚く。自分を信じるというより、自分が信じると表現した方が、スッと胸に染みてくるのだ。
自分を信じるには、過去に根拠が必要だが、自分が信じるというと、その根拠をこれから作れるような前向きさが乗るように思う。あまりにも細かい差異ではあるが。
ぶっちゃけ蛇蝎の如く嫌いだった「自信」という言葉は、「自分が主体的に何かを信じて、それが実現するよう前向きに実験を繰り返すこと」に変わった。
それが今後どう更新されるか。それは分からないが、それ自体面白いことになると、まずは僕自身が信じることにしよう。
では今日はこの辺で。