今日は「自分は期待されていない」と意識することこそが、肩の力を抜くために重要であるという話をしてみようと思う。
実を言うと僕は、人に期待されていると思い込むことは、傲慢さから生じるのではなく、むしろ本能に近い感覚ではないかと考えている。
生まれ持ったものとして、誰しもが自然に「自分は期待されている」「だから期待に応えなければならない」と日頃から思いがちなのではないか。それくらい普遍的なのだ。
しかし、ここからがややこしい。”実際に”人から期待されている水準と、"自分が思う"期待の水準は、実際のところかなり乖離していることが多いのだ。
例えば、人から期待していると言われると、120点出来のパフォーマンスを出す必要があると思う人がいる。その実は、70点で良いという意味だったとしても、だ。
だから無駄に緊張するし、ゆえに無駄に疲労が溜まるし、したがって人は自分のことを正当に評価していないというメンヘラな自他への評価に落ち着いてしまうのだ。
今日はこの辺のズレをテーマに、ひとつ記事をしたためてみたいと思う。
自分から自分への期待は大体過剰。
念押しするが、人は自分が期待するほど、自分のことは見てなんかいない。これは『絶望しきって死ぬために今を熱狂して生きろ』という本でも触れられている。
尚、この本の原題こそ、『人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない』である。
つまり、このくらいニュートラルな感覚を持つことが、安定して成果を出すために必要なマインドであるということなのだと納得している。実際、肩の力も抜ける。
僕自身も、自分が思うほど期待されているわけはないし、かといって全く期待されていないわけでもないのだろう。主観バイアスが五月蠅いが、実態はこんなものだ、と。
世の中が求める”期待”は大体、及第点のことである。日頃出せないような集中力や根性を発揮し、過去最高点のその人のパフォーマンスを求めているわけではないのである。
これ自体はプロとして甘い考えなのかもしれないが、及第点をまずは安定して獲得しておき、余力を使って後から加点するという考え方でも、結果が出れば同じなのだ。
いきなりなんだという話だが、僕は英検1級を持っていて、それゆえに英語に関してはそれなりの自負を持っている。
英語圏で暮らしたことはないため、実生活という意味で経験不足な面はあるが、頓珍漢に間違ったことは言わないという、最低ラインが高めという自信はある。
それを守れていれば、仕事は果たせたこととなる。まずはそれで一つ満足感を覚える自分を認めたいと、僕は強く感じている。拘りは意外とマイナス評価なのだ。
例えば他者が僕に、スーパーティーチャーのようなカリスマ性に満ちた講義を期待しているなんてことはまずあり得ないと、己から己への幻想を解くことが大事だろう。
僕は芸能人でもない、ただの平々凡々な一般人だ。その他大勢と何も変わらない、エキストラの一人。だから他人が僕を見る”わけがない”。
大多数の人にとって僕はやはり、「記憶に残らない存在」なのだ。これは卑下でも卑屈でもなく、等身大の現実そのものだと僕は納得しているので気にならない。
この点では気楽に構えているし、その気楽さをもっと仕事に活かせれば、伸び伸びと働けるのではないかと思っている。
ということで、今日はこの辺で。