今日は少し抽象的な話になるが、僕が”嫌いな”言葉でもある「自分の頭で考えろ」という助言?について書いてみる。
この言葉を聞くと、状況にもよるが、僕はその人に対する信用を結構失う。そしてもちろん僕自身も、人に対してこの言葉を使うことには、強い抵抗を感じる。
この言葉が嫌いな理由は、単純にそれを言った人が責任を放棄しているように感じるからだ。また、物事の本質を理解していないようにも、正直思える。
今日はそんな愚痴めいた話を起点として、つらつらとそれっぽいことを書いてみる。
我流はつまり、拙い型の模倣に収斂する説。
もし、自分の頭で考えることが大体の場合正解だとすれば、世の中に師匠や先生は不要になるはずだ。我流が正しいとすれば、わざわざ誰かに学ぶ必要がなくなるからだ。
それもあって僕は、吉田兼好の『徒然草』にある「先立つものがないのはよくないよね」という考えに、結構共感している。
我流という言葉がカッコよく聞こえるのは、少年漫画の中だけだと思う。むしろ拙い模倣に終始し、動作や技術の基礎や哲学が理解できず、抜け落ちる可能性が極めて高い。
やはり、素人がいきなり自分の頭で考えて動いたり練習したりするよりも、他人に教えてもらった方が、つまり早くて安全だ。強くそう思う。
また、我流でしばらくやった後に他人の教えを受けると、積み重ねた悪癖が邪魔になることもまた、すごく多い。アンラーンで一番難しいのは、癖の更新なのだ。
どうでもいいものなら我流でも構わないが、例えばスポーツや芸術、勉強などでは、基礎基本を無視して我流に走るのを促すのは、とても無責任だと感じる。
ではそれを踏まえて、どうすれば良いのだろう。取り急ぎ僕は、模範演技や講義のようなもので、型を手っ取り早く学ぶのが良いように感じている。
それは実際に会って教わるのでもいいし、YouTubeの動画でもいい。とにかく、自分がやろうとしていることの解答の1つを先に知っておくほうが良いのではなかろうか。
もっとも、それだけでは我流の悪癖がつくリスクはそこまで減ってこない。更に追加で心掛けが要る。例えば、1回で納得しないという自分ルールを定めるのもいい。
実際、言われた通りに技を真似して、一発で手応えめいたことを感じる場合があるが、それは多くの場合勘違いだ。
それが本当に手応えなのか否かは、少なくとも2回以上の試技が無いと判断がつかない。比較するためには、その対象が必要だからだ。
一度目で勘所が理解できるわけがない。それを念頭に置けば、動画を見返したり、哲学を学び直したりといった手間は惜しまなくなるのではないか。
またそれを繰り返すことで、段々とズレている部分に気づけたり、基本を押さえたうえで、自分にとっての最適解の仮説を立てたりすることができるようになる。
【熟達論】で説かれていた内容の受け売りに近いが、僕もその通りだと様々な経験を通じて、思うに至っている。
尚、これはスポーツだけでなく、勉強のような頭を使うものでも同じだ。まずは言われた通りにやってみることが本当に大事なのである。
それゆえ、授業を受ける意味はここにある。正しい模範をとりあえず示すのは、我流でうまくいく人は放っておけばいいが、そうでない人の方が圧倒的に多いからだろう。
結局、型からの脱却が推奨される風潮の中で、それが極端に逆に振れて、どこか車輪の再開発のような構図の我流が横行していると、僕は強く感じている。
「我流マンセー!」のような、自分が正しいと心底思い続けられる人もいるが、僕はそのような人たちをどこか痛々しく思っている。
だから自分がそうならないように、常に自分に対して批判的でありたいと、強く思うようにし続けたい。それが自己否定にまで行き過ぎないよう気を付けながら。
てことで、今日はこれで終わりにする。