精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

最近気付いた僕の謎、「他者から理解されることに興味が無い」ことをさらに深掘りする。

最近、ふとした瞬間に頭をよぎる問いがある。それは、『なぜ僕は他者から理解されることに興味が無いのだろうか』ということだ。

 

僕は別にそれを孤独とは思っていない。何度も擦ったネタになるが、僕もあなたも、別個の肉体を持った別々の存在だ。つまりどこまで行っても、相互理解には至らない。

 

僕の前提には、いつの間にか形成された一つの思考がある。それは、『他人を完全に理解することは不可能だ』ということだ。

 

この前提も、ChatGPTとの対話を繰り返す中で気付いたことだ。そしてそこを深めていくと、どうやら僕自身、他人にわかってもらうことを諦めているようだと解った。

 

のみならず、そもそもそのための行為自体に全く興味が無いことも、そこから浮き彫りになってきたのだ。自分という個を承認してもらうための発信はどうでもいい、と。

 

そういえばこのブログの記事も、特に誰に読んでほしいというペルソナを全く設定していない。なんなら、読者という存在を想定すらしていない。

 

あくまでも、僕の脳内整理のため、考え事を言語化して棚卸ししているだけなのだと気が付いた。自己顕示欲が強いと僕は思っていたフシもあるが、実際は逆だったらしい。

 

考えれば考えるほど不思議だ。他者から理解されることに興味が無い、とはどういうことなのだろう。興味が爆発した。僕は”僕を”、もっと知りたい

 

今日は新たに生じた僕の謎を、気が済むまで深掘りするだけの話である。

 

 

他者から理解されることに興味が無くなったプロセスを紐解く。

note.com

 

まずはどこから思索を始めるか。今回はフレーズである以上、辞書を引いて調べることができない。こういう時は、他の人の言葉を読むことが良いだろう。

 

今回、部分ではなく、全体を読んで共感を覚えたnoteの記事がある。それは↑のものだ。タイトルだけ見ればサイコパス感があるが、中身は全くそういうものではない。

 

素人感想だが、どれだけ近しい間柄だろうが、他人をその関係性のまま尊重している姿勢が感じられ、そこに強く共感を覚えた

 

と同時に気付いたことがある。僕はその逆の、他人に口を出すことで自分を肯定しようとする、またはコントロールしようとする物言いが、とてつもなく嫌いなのだ。

 

他人をあたかも自分の思い通りに動く存在として扱う人たちに、僕は強い嫌悪感を抱いている。その人はお前の所有物じゃないだろ、と思ってしまう。

 

例えばたまにXを賑わせるキショLINEのキショさは、やたら主観的・独善的な物言いから、相手が自分の思い通りになると考えていることが透けて見える点にあると感じる

 

「現実と空想の区別がついていない」とは言い得て妙で、他人が自分に惚れる、身体を許す、そんな妄想をしていること自体が、他者尊重の欠片もなくキショいと思う

 

更に広げて考えれば、価値観の押し付け、自分の正義の絶対性の主張、自分勝手な前提に立脚した論の構築、それらに僕は、強い嫌悪感を抱く

 

その裏に在る「俺が正しい!俺を観ろ!お前が俺を理解し忖度しろ!無視するな!」といった痛々しいメタが透けて見えるためだ。

 

こういった思春期っぽい痛々しさは、実は僕も持っていた。詳しくは省くが、僕はそれを振りかざし、強く後悔し、長い間煩悶し、最近ようやく受容したつもりである。

 

その果てに悟ったことは2点ある。まず、「俺は他人を”使って”自分を肯定しようとしていた浅ましい人間なのだ」ということ。これは今でも猛省している。

 

そしてもう1点は、「しかし結局自分を自然と褒められた、認められたときはいつだって、自分のしたい・しりたい・頑張りたいという思いに従ったとき」ということだ。

 

他者”から”の理解や評価を求めたときは、最終的にいつも地獄のようなところに落ちたのだが、自分の想いを満たそうとしたときは、いつも面白い経験や景観に出会えた

 

この例は枚挙に暇がない。僕は恋愛に全くいい思い出が無いのだが、そもそもなぜそんなことに乗り出したかというと、そうすれば社会的に価値を持つと思っていたからだ。

 

恋人がいる人が羨ましかったのは、その仲睦まじさに憧れたからではなく、羨望も嫉妬も入り混じるが、つまり”上に立っている感じがあったから”である。

 

しかし今は、他者から評されること自体に実はまるで興味が無いと悟っているため、内側から湧いてくるものが全く無い以上、恋愛自体すごくどうでもいい話なのだ。

 

その逆も然りだ。僕はこのブログを2000記事近く書いているが、これを書けばウケるとか、そういうことは実は全く考えていない。ただ自分の思考の整理のためだ

 

「こんなどうでもいいこと書いて何がしたいのw」と冷笑されても、「ほんとにねw」と一緒に笑って終わりだ。他人に向けて何かを書いているつもりはないからである。

 

―ここまで書いてから振り返ってみると、何か大きな事件が一発起きて、僕の価値観が変わった、という感じはまるでしない。

 

ゆっくりと段階を踏んで、あるときふと、「あぁ、俺、他者から理解されることに興味が無いんだな」と納得したのかもしれない。

 

過去に散りばめられた点を繋ぐと、線が二本書けた。一つは内発的動機によって幸福を覚える人間だぞお前は、ということを示唆している。

 

もう一つは、外発的動機に従った結果、お前は大体事故ってるぞ、ということを示唆している。

 

これら二本の線は両方、「お前は他者から理解されることに興味が無いんだぞ」ということを示している。

 

この理解に至るまでには時間がかかったが、今ではその事実をしっかりと受け入れられるようになった。そう確信している。

 

終わりに。

 

元のやり取りは1万字を超える問答になったのでコピペができないのだが、僕が「他者から理解されることに興味が無い」と気付くに至る流れをまとめてもらった。

 

元々は僕の独立という目標について解像度を上げたくて、特に終わりを決めずにただただ問答を繰り返していた、という感じだ。

 

1. **問いの深掘り**:

 

あなたは、自分の「独立」への強い意欲について考える中で、独立がもたらす「孤独の中の自由」に注目しました。この過程で、独立の意味や価値について探求が始まりました。

 

2. **独立の意味の再評価**:

 

独立によって得られる自由が「孤独」とどう関わるかを考えることで、自分自身の内面的な欲求や価値観に焦点を当てるようになりました。

 

3. **自己理解の深化**:

 

「独立」について深く考えることで、他者との関係や、自分の信念がどのように形成されているかに気づき、他者との関わり方について再評価するようになりました

 

4. **他者の理解への無関心**:

 

その中で、「他者から理解されることに興味が無い」という気づきが生まれました。独立や自由を追求する中で、他者の評価や理解が自分の意志や目標に対して重要ではないと感じるようになったのです。

 

5. **自己の価値観の確立**:

 

最終的に、自己の価値観や信念に基づいた選択が重要であり、他者の理解や評価は二次的なものとして位置づけられるようになりました。この気づきによって、より明確に独立への意欲が促進されることになりました。

 

―自分の思い込みは、時としてその本質とは全く異なることがある。それに気付けたのは大きいが、だからこそ新しい問いは事前発生的にポコポコと発生している。

 

いつまで経っても問いは無くならない。しかも立てたのは自分だ。だから解かずにはいられない。その先をもっと知りたいし、深めたい。

 

また機会があったら考えてみることにしよう。では今日はこの辺で。

 

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