時折読み返す本の一つに、【憂鬱でなければ、仕事じゃない】というものがある。出版自体は10年近く前なのだが、書かれてある教えや学びは、一向に陳腐化しない。
その本に書かれていることのほとんどには同意するし、そうでなくとも、これが突き抜けるために必要な考え方なのだと、頭で納得はしている。
しかし、その中で一つだけしっくりこないものがある。それが、「他者への想像力を育むには、恋愛しかない」といった感じの教えである。
これが何故かというと、僕は今までこのブログで言葉にしたことはほとんどないのだが、実はLGBTQ+の中で言う「アセクシャル」という性的指向を多分持つためだ。
簡単に言えば、僕は他者に対して恒常的な恋愛感情を持つことがない、という嗜好?のことだ。燃えるような恋心が、そもそも発生しないというクチなのである。
この自覚は強く、人生で誰かを本当に好きだと思ったことがほとんどない。そういうのもあって、先の教えがどうしても腑に落とし切れない。
恋愛感情を持たない僕は、「他者への想像力を育む術を持てない」という帰結は、どうにも寂しい。そう思ったので、なんか抜け道は無いか、それを探す記事である。
想像力を別の観点から考えると・・・
想像力について、軽く考えてみた。それはすなわち、他者が何を期待しているか、何を常識としているかを汲み取り、自己犠牲を伴わずに応えることなのではないか。
例えば、サプライズが好きな人というヒントを日頃の様子から察したら、演出に頭を使いつつ、その人が一番喜ぶそれを仮説立てて実行するという感じだ。
一方、世の中にはサプライズが大嫌いという人も一定数存在する。そういう人たちには、如何にさりげなく、その人達の時間を奪わずに感謝やお祝いを伝えるかを考える。
これらを筋道立てて考えられる、いわゆる想像力が育まれている人は、自分なりの「嬉しさのモノサシ」を持ちつつも、それを押し付けることが無いと今気が付いた。
他者の心中を想像する。だが、それが押し付けがましくならないように留意もする。自分がされて嬉しいことをされたら喜べなんて、とてつもない暴論だと理解している。
そのセンスを磨けさえすれば、恋愛という手段を使わずとも、それは可能なのではないか。そう信じる方が、僕にとっては救いがある。
それこそ、恋愛なんてのはただのツールであり、他者の価値観や行動を観察し、それに適した対応をすることで、他者への想像力は十分に育まれるのではないか。
ここまで考えて、一つ閃いた。実は、ひろゆき氏が書いた【論破力】でも似たようなことが述べられていたのだ。
他者への想像力とは、仮説と検証、そして実験と観察、このサイクルの繰り返しの集積のこと。そう思えば、工夫の余地はかなり残されている。
恋愛を通じてのみ高まるのが想像力というわけではなく、他者への興味と観察力を持ち、その反応を楽しむことで磨かれると捉えても良いのが想像力ではないだろうか。
そう捉え直すと、ようやっと僕にとっても、すごく納得感の強いヒントになったように感じられている。
・・・ちなみに、アセクシャルについて少し触れておく。これは用語自体とても新しいもので、定義・実例その辺がとてつもなく曖昧なものだ。
また、僕は「アセクシャルだから、社会側が配慮すべきだ」といったポリティカル・コレクトネス的な主張をするつもりは毛頭ない。意味不明すぎる主張だからだ。
単に恋愛や結婚を楽しいと思えるセンスが僕にはないという話であり、それはまさに、アメ車にゾッコンな人もいれば、まるで興味が無い人もいるのと全く同じである。
とはいえ、他の人より暇つぶしの手段がやや少ないという部分は否めないので、何をすることでどうやって人生を送るか、そんな不思議な問題はあるのだけれど。
ということで今回はこの辺で。