集団授業の運営について、最近『悩む』ことが増えた。45分ないし70分という尺がある中で、どうにもほころぶ箇所が出てしまいがちなためだ。
―が、冷静にふと考えて、今はもうその悩みは霧散している。それは、『45分ずっと集中させるとか、そもそも無理ゲーだったわ』という真理を思い出したからだ。
集団授業とはいわば授業の花形であり、一番見る目が厳しい、つまり求められる水準が高いと考えて差し支えはない。
そしてこれをあまりにも重大に捉え、自分に求める水準をも激高にすると、指導する側は鬱病まっしぐらとなる。
―ということで今日は、集団授業を運営しながらも、精神に平穏をもたらす心構えについて述べてみたいと思う。
全員が『シン・・』としている授業のカラクリ。
『素晴らしい!』とされる授業のイメージは、大抵の場合、『受講者全員が集中して、講師の説明に聞き入っているアレ』だと思う。
―断言するが、あのクオリティを学校や私塾の授業で目指すと、達成できない日々が連続し、最悪精神を病んで終わる。
そもそも一流講師ともなると、その授業は大半が『志願制』だ。つまり、前提として聴講者には目的ややる気があるという話である。
一方、よっぽどの入試や入塾テストを経ない限り、学校や私塾の生徒が全員そうであるワケはない。何人かはイヤイヤだったり、ワルだったり、多動性を抱えていたりする。
そういう環境でそんなクオリティを目指すのは、ハードルが高いというより『無理』である。だから無責任に聞こえるかもしれないが、僕は沈黙の授業を諦めている。
よほどそんな環境で授業がしたいのなら、自分のレベルかブランドを高めていくしかない。ただその過程は険しく、実力だけでなくコネも求められるのをお忘れなく。
集団授業の及第点はどこにある?
ではここから、参考がてら『色んな人』の及第点をご紹介していく。
①生徒の70%がわかったとき
これは↑この本に書いてあった目安。
『集団授業が1クラスあったとき、全員が理解できればそれに越したことはないが、70%分かれば御の字』
とのことだった。つまり、10人いたら3人に『サァ?』と言われるまではセーフなのだ。
著者は超有名講師であるため、その人がそう書いているのは非常にほっとする。少なくとも僕は救われた。
②シーンと集中した時間があったとき
こちらの出典は↑コレ。多少説明時にがやがやしていても、やるときには全員がやるという時間が少しでも存在すれば、崩壊前に踏みとどまれるとのことであった。
この話を聞いてから、説明時にシンとさせきるのが非常に難しいクラスでも、演習時に頑張っていればOKと許せるようになった。
逆に考えれば、演習すら制御しきれなくなったら、ヘルプを求めるか、ヘルプするかの段階である。留意されたし。
③ウケたとき
これは僕の体感。『わからん!』『つまらん!』の時間が長すぎると、色んな信用等が毀損されまくる。
それならばいっそ!という具合に、クラスの雰囲気次第では、小ネタの雑談に鉄板ネタを放り込んだり、例文をとことんふざけたりと、『笑い』に全振りすることもある。
意外と、授業が上手な『だけ』の人の評判は頭打ちだ。そこは割り切って考えて構わないのではと思う。
終わりに。
ということで、だいぶ心が図太くなった今だからこそ、こんな記事を書いてみた。
そろそろ面談のシーズンに入っていくため、グサグサとフィードバックが降ってくるタフな時期となる。
それに入る前に自己肯定に失敗していると、終わることには疲弊しているに違いない。それを防ぐという意味でも、この記事は参考になるかもしれない。
同じ仕事柄の人は、少し立ち止まって見つめ直してみてはどうだろうか。
では今日はこの辺で。