精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

【信頼】は言葉の手形の不渡りで壊れていく。

たまご蒸しパンが実は超大好きですが、「似合わない」ということでそれの風評被害を出しているらしい中元です。

 

はい。最近の興味・趣味はもっぱら、僕は何を目指して、どんなチームを作りたいのかという問いと仮説の言語化である。暇さえあれば、そればかり考えているわけで。

 

私企業である以上、利潤を追求することこそが至上命題に違いはないのだが、そのためにはやはり、強いチームが無ければならない

 

僕はこの基盤の構築が先だと考えている。ニワトリタマゴ感は拭えないが、それでも、だ。だから、それについては色んなことを本当に考えて、試している。

 

しばらくはワクワク感というか、これでやりたかった施策をバンバン打てるという希望に輝いた未来ばかりをあえて考えていた。そうでないと、楽しくないからだ。

 

ただ、いずれどこかで自分がやろうとしていることを客観視しなければならないとも感じており、そしてぼちぼち、ネガティブに考えるべき段階だと思うに至っている。

 

その一環として、「リーダー 交代 失敗」といった風に検索を掛け、リーダーが変わったことによってチームに悪影響が出た例を、つぶさに調べてみた

 

その結果、その例はやはりゴロゴロと出てきて、慄然としている。逆に、変わった結果よくなった例はほぼヒットしなかったことを考えると、その対比が本当に怖い。

 

だが、失敗にはやはり普遍性がある。そしてその普遍的な罠は、油断すれば僕だってすぐにやらかすあれこれであった。

 

だからタイトルにした。【信頼】は言葉の手形の不渡りで壊れていく

 

今日はそれをベースに書いていく。

 

 

【信頼】できないリーダーは当然没落するが、その始まりはどこにあるのか。

福井市 平家物語絵巻を紹介:日刊県民福井Web

 

【信頼】できないリーダーは当然没落する。そんなもん考えずともすぐにわかることだが、最初からそういうオーラ全開なら、そもそもリーダーになれないとも思える。

 

つまり、何かが積み重なった結果、それがどこかのタイミングで閾値を超えて、「あいつは信頼できない」という烙印を押されるようになったのだろう。

 

最初から【信頼】されない人は、そうそういない。だから、僕の周りにも当然、それを一瞬で失う可能性は四六時中潜んでいるということである。

 

そもそも、【信頼】とはどういう状態なのか。プルチックの感情の輪によれば、敬愛と容認の間の感情ということであった。そう思えば、確かに結構しっくりくる。

 

併せて、辞書も引いてみた。すると【信頼】とは、こう説明されていた。

 

信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。「―できる人物」「両親の―にこたえる」「医学を―する」

 

―つまり、言葉の意味としては、「安心」という語句に結構近いのではないか。信頼を失う行為も、安心を損ねる行為も、実は同じことなのでは

 

だからさらに問いを進めた。「信頼・安心」できないとは、どういう状況なのだろうか。いわば、安心の対義語、「不安」を呼び起こす状況の共通点とはなんなのか

 

不安とは、「わからないものに注意が向いている状態」という話を、どこかで読んだ。わからないものが多ければ多いほど、安心から遠ざかり、信頼を損ねるということか。

 

このことを考えた瞬間、僕の中ではっきりと見えるもの、しっかりと掴めるものが、あった。少しワクワクしながら、それを言葉にしていこう。

 

【信頼】は言葉の手形の不渡りで壊れていく。

 

人から信頼されない人は、大体「わからない部分」が多い気がする。例えば、どこに地雷があるかわからない、プライベートは何をしているかわからない、という風に。

 

職場で嫌悪されがちな上司のステレオタイプを考えても、この観点に帰着する。何をすればいいか教えてもらえない、どんな情報を求めているかわからない、等々。

 

その中でも一番身近で、最も遅効性の毒のように効いてくるのが、僕は「信じていいのかわからない」という不安だと考えている。

 

例えば数年前、とある上司から、小学校教師との合コンをセッティングすると言われたことがある。当時はまだ彼女という存在に憧れがあったので、喜んで待った。

 

しかし待てど暮らせどその話は進まず、気付いたらそれは自然消滅してしまった。これそのものは些細な日常の一景色に過ぎない。

 

ただ、以来僕は、その人からの依頼やその人への依頼について、どこか不信する気持ちが乗ってしまうようになった。どこまで本気か、わからなくなったからだ。

 

食事に行こうと言われたとして、それが本気なのか、それともただの挨拶なのか、この言葉を進めて、僕に「会をセッティングしろ」という命令なのか、全くわからない

 

わからないままの状態が続くことは、本当にストレスだ。だから安心が失われる。結果、信頼も損なわれていく。そのきっかけは、言葉の手形の不渡りだ。

 

対応するといったことに対応しない。責任を取るといいながら投げ返してくる。怒らないと言った数秒後にブチ切れる。メシに行こうといったのに完全に忘れてしまう。

 

いずれも、言葉にすると少し重いのだが、会話の中だと非常に軽く言われて、そして軽く消えていくものばかりだ。だから知らない間に、信頼を失うのだ。

 

僕もまだ、自覚しているだけでも数個、空手形になってしまった口頭の約束が浮かんでいる。これは良くない。仕事が落ち着いたら、速攻でそれを果たそうと焦っている。

 

マイクロマネジメントとか、プレ・マネジメントといったカッコイイ横文字はいくらでもあるのだが、まずは本当に基本的な部分が大切なのだ。

 

僕は他者に対し、「わからない」ことによる不安をいたずらに与えていないだろうか?そんなシステムになっていないだろうか?

 

折に触れて自問したいと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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