精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「多忙」が消えると「不安」になる。僕は「退屈」をもっと味わえるようになりたい。

さっき、あることに気付いてゾッとした。今はその驚きは幾分薄まり、どこか呆けたような気持ちに至り、そして恐る恐るこの記事を書いている、という感じだ。

 

そんな風に思うほどショックだった出来事として、何が起こったか。それは、僕が完全に、「多忙」を渇望し、「退屈」を否定していると気付いてしまったことだ。

あれほど仕事が片付いた状態を欲し、あれほどオンオフの切り替えの重要さを口酸っぱく人には伝えてきたのに、なんという自己矛盾だろうか。本当に自分が怖い。

 

ただ、今回は幸いにもそれに気付くことができた。偶然の出来事だが、これ自体には強く安堵と感謝の念を抱いている。

 

今日はエセ禅問答・エセ哲学に過ぎない脳内談義だが、極めて個人的な体験を元に、うだうだと記事を書いていこうと思う。

 

 

完了の後に待っていたのは、この上なく喧しいメタからの”がなり”だった。

今日は珍しく、定時を2~3時間残し、この日に終わらせるべきタスクが全て終了した。本来はそれに満足して、残り時間はゆったりと過ごせばいい。今ならそう俯瞰できる。

 

だが、僕のメタはそれを良しとしなかった。手が空いたなら、明日の仕事を前倒しでやろう。明後日の仕事も前倒しでやろう。そんな風に、心の内から急かされてしまった。

 

気付けば、メタはさらに勢力を増した。業績がパッとしない今、のんびりしている贅沢は許されていないだろう、と問うてくる。

 

未来のために、もっと布石を打っておけよと急き立てられる。そしてその具体的プランを考えられない自分に対して、苛立ちが募っていく。

 

脳が感情にジャックされた瞬間だった。もうそこからはあまり記憶にないが、お使いのような仕事を依頼されて露骨にイラつき、そんなのにイラついた自分にイラつき・・。

 

果ては、日曜日をダイエットの一時休暇の日にしようと、前々から決めていたことにさえ腹が立ち始め、どうにもこうにも収拾がつかなくなってしまった

 

今日の退勤後の予定、明日の予定、明後日の予定を何度も組んで、消して、また組んで、とにかく何かをしていないと死ぬかのように、僕は駆り立てられた。

 

思い通りに行かない。だから思い通りになるよう、現実の方を変える必要がある。そのための行動でぎっちりと埋めて、退屈なんて感じる余裕さえ失くさねばならない。

 

Google Chlomeのタブは、僕が開いたサイトでいっぱいだ。非常に小さな長方形のような形状のそれがずらっと並んでいる。

 

何かをアウトプットしていなければ。それが叶わぬなら何かをインプットしていなければ。「焦り」に乗っ取られた僕の思考・言動は、ある意味で清々しかった。

 

―そうやって勝手に狂乱している折、本当にふと、胸の内に疑問が生じた。静かな水面に水滴が落ち、その澄んだ音が一気に静けさを生むように、心が凪いだ。

 

「一体俺は、そんなにあくせくして、何がしたいの?」

 

・・・・・・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

僕はその問いに答えられなかった。目的無き多忙。強いて言えばそれによって、まやかしの安心感に浸っていたかっただけだからだ。

 

その刹那、全てがバカバカしくなって、今まで聞こえていなかった音、身体感覚など、自分を取り巻く環境からの情報が、きちんと自分に戻ってくるのを感じてきた。

 

深呼吸を一つ入れてから、自分が勝手に狂奔していた時間の長さを確認する。ざっと1時間程度だ。その間、そうすることによって、何が生めたのだろうか。

 

もうお分かりの通りだ。何も生めなかった。僕が欲していた安心さえも、そこにはまるで生じていなかったのだ。一体何のための時間だったんだろう。

 

僕は多忙な時間、忙しいだけの状況は好きではないと口では言っている。だがその実、そういった時間を過ごしていることに安堵を抱く自分も認めている

 

この矛盾とどう折り合いを付ければいいのか。下園壮太氏が提唱する「しがみつき」にある僕を、どう自己救済すればいいのだろうか。新たなテーマが、己の内に生じた。

 

確かに、傾いた業績を立て直した人は、必死で働くことによって、少しずつそうしていった人が多い。だがその人の中で、余暇・趣味・一人の時間を否定する人は稀有だ。

 

その仕事のことをずっと考え続けるほど執心する人が成功するという意見に賛成する。だが、優れたアイデアは、余裕のある豊かな心から生まれるという助言も納得する。

 

こうして書き並べると、段々わかってくる。この2つは矛盾しているわけじゃなく、それぞれがそれぞれのために必要な物というそれだけなのだ。

 

この構図は筋トレに似ている。筋トレはトレーニングが大事とされるが、それと同じくらい栄養も大事で、さらに言えばそれと同じくらい休養も大事なのだ。

 

しっかり鍛えて、しっかり栄養を摂って、しっかり寝る。昔ドラゴンボールで読んで、ただのギャグシーンと思っていたコマが、急に含蓄あるものに見えてきた。


僕は我ながらよく頑張っていると思う。だがやはり、心を緊張させ過ぎなように思えてきた。バランスが崩れている。だからイライラする。

 

そしてこれは近視眼的な思考の凝りも生む。例えば植物の種を蒔いた後、芽が出るまでの期間は、平均して3~7日なのだという。

 

その尺を無視して、1日で芽が出ないことに苛立つようなことがあると、その人は支持そのものを失っていくだろう。ゆとりは甘えではないのだ。

 

僕は一体何を恐れ、緊張していたんだろうか。段々呆れてくると同時に、幽体離脱して自分の肩に手を置いて、もっとラクに構えろよと諭したくなった。

 

自愛は自分にしかできないこと。そのことに気付いた良い時間だった。そういえば、タブをいっぱい開く中で、面白そうな本を見つけた。

読書の秋というけれど、今度買う本はこれをとりあえず確定で、あとは三島由紀夫の本、そして気になっている森鴎外の本、この辺を読んでみようかな。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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