今日は先日の記事の続きみたいな内容を書いてみる。ざっくり言えば、「努力」を楽しくするのはいいけど、「遊び」にまでユルめたらアカン、という話だ。
これはどちらかと言えば自戒の言葉なのだが、先日僕は、「努力自体が楽しくなれば無敵だよね」みたいなことを記事にした。
しかし、だからと言って無条件に「楽しい」というベクトルに向かって突っ走ると、努力ではなく単なる「遊び」に変わっていくような気がしてきた。
「楽しい努力」と「ただの遊び」の境界線は、思った以上に曖昧。こないだの記事を書き終えてから、自然とそんな思いが心の底から湧いてきている。
今日はなるべく丁寧に、その辺を区別してみたい。では以下、本題である。
「努力」と「遊び」の違いはなにか。
子どもの頃、手持無沙汰な時間なんかは、よく教室の後ろの方でオリジナルの遊びを考えては、休憩時間の度に実際に運営していた記憶がある。
その際は、「どうすれば面白くなるかな」という目的こそあったが、そもそもその時間が楽しいかどうか、ということが念頭にあったと思う。
僕が好きだったのは、誰がそう呼び始めたか、それとも実はメジャーなルールなのか、トランプの「ジジ抜き」という遊びだ。
ババ抜きでは、持っていたら負ける札はジョーカーだと決まっているが、じじ抜きでは何がジョーカー役になっているか分からないという特徴がある。
ジョーカーを含めてすべてのカードが2枚ずつある束から1枚を抜いて、その状態でババ抜きをするためだ。つまり終盤まで、疑心暗鬼の状態の中で札をやりくりするのだ。
これがちょうどいい塩梅で面白く、なんなら高校生の頃でも、いわゆる野外活動の空き時間で、知らない人同士でも盛り上がることができた。
―では、改めて考えてみる。これは、「楽しくしようと工夫した努力」なのか、はたまた「ただの遊び」なのか。特に難しくないだろう。後者だ。
「努力」と「遊び」の最たる違いは、それを繰り返すことで、更にその先に設定した目標・目的を達成するという狙いがきちんとあるかどうかではないかと思っている。
狙いがあれば、それは努力だ。しかしそれが存在せず、楽しい時間の中で完全に完結している状態だと、それは遊びになる。ジジ抜きの先に、目的などないのだ。
こう考えてもやはり、努力と遊びの境目というのは非常に曖昧であり、かなり意識して、自分に対して批判的思考を向けられないと、区別がつかなくなる。
先日記事にした、ポスティングの話を例として、努力と遊びの違いをもう少し深めてみる。これも、ただ配るだけじゃなく、速くたくさん配れたら、確かに楽しくはなる。
すごく乱暴なことを言えば、ポスティングにおける速さと多さを徹底して追及すると、団地に行ってポストにひたすら入れていくのがその極みとなる。
だが、果たしてそういう県営の団地に、学習塾へ子供を通わせたいという意欲がある家庭はどれほどあるのだろうか。そもそも子供はそこに暮らしているのだろうか。
ポスティングは、新規入塾生を獲得するための広報活動の一環だ。楽しく工夫するのは勝手だが、その先には問い合わせという一つの目的が無ければいけない。
そのことを忘れて遊びに走ると、そんな無責任勘違い野郎に給料なんて払っていられない、という話になるので、その辺りはドライに考え続ける必要があると思っている。
自分が今やっていることが遊びなのか努力なのか、という視点は、折に触れて自分に差し向けられるように意識したいと改めて思った。
では今日はこの辺で。