今日は体調不良によって得られた、ある「気づき」について記事を書く。僕はよく、メンタルをどう整えて、かつそれをなるべく安定させるかということを考えている。
それを記事にしたりもしているが、やはりキーワードとなるのは、「意識と自分を切り離した感覚」だと思う。
かっこよく言えば、自分という存在をさらに俯瞰するようなメタな視点を持ち、自分という生体を遠巻きに観察するという感じだ。
それは似た感覚としては、例えば小説を読んでいるとき、あるいは映画を観ているとき、この辺りに近いという話は、よく耳にする。
―突然話が変わるのだが、実は今、体調が悪い。具体的には、片頭痛の発作が起きていて、頭痛薬や風邪薬で、割と無理矢理抑えている状態だ。
この状態になると、頭がぼーっとしてしまい、考え事をしてもまったく深まらない。集中もできず、意識が常にどこか拡散したような感覚が続いてしまう。
発作の予兆自体は昨日からあったので、この痛みは明日まで続くかなぁとすごく憂鬱な気持ちになったのだが、その中でも一つ、発見を得られたという手応えがある。
今日はそんなお話を以下、書いていこう。
心に静寂が訪れている状態。
頭痛を薬で抑え込んでいると、思考は一切凝縮せず、常に拡散したような感覚になる。頭にモヤが掛かったように、ひたすらぼーっとしてしまう。
しかし、冷静に考えると驚きなのだが、そうやってぼーっとしていても、余計なことが一切頭に浮かんでこないのだ。
退屈していると、普段なら絶対考えてしまう己の黒歴史や未来の不安も、今日はまったく気にならない。ひたすら、何にも集中していない時間が流れている。
加えて、思考だけではなく、感情も鈍化している。面倒くさいと感じる気持ちさえなく、ただひたすらに、考え事が言葉になることなく、頭の中を漂っている。
そのこと自体にストレスを覚えることもなく、体調が悪いことによるもどかしさも感じず、非常に平穏なメンタル状態にあることに、今しっかりと気付いている。
さながら夢を見ているときのように、あらゆる音・刺激・温度が自分から遠いものに感ぜられ、思考・感覚・意識もどこか他人事だ。
これこそが、実は観察瞑想を修めた果てに辿り着く、静かな心なのではないか。明鏡止水の極致とは、徹底して他人事に全てが見えることを意味する、のだろうか。
しかし、いくら心が何かしらの域へ辿り着いても、肝心の体調自体がすこぶる悪いため、この状態を理想と呼ぶことには大きな無理がある。
ただ、もしこの感覚を体調が良いときに再現できれば、それは非常に素晴らしい体験になることは間違いないだろう。「観察瞑想」に一層取り組む意欲が湧いてきた。
正直、片頭痛持ちであることを自覚して以来、この発作が何度目かなんてことは全く気にならないくらい、何度も何度も経験し、反応すること自体が面倒になっている。
今日は頭が働かないまま終わり、運が良ければ明日には治るだろうが、期待はできない。また、更に運が悪ければ、左側も痛み始め、今週いっぱい引きずるだろう。
そんな風に諦めてしまい、一切合切を受け入れるのが、僕ができる片頭痛への対抗の全てであった。しかしまさか、心の静寂を僕にもたらしているとは、すごく意外だった。
確かに、片頭痛発作が起きた日は、その日の記憶がとても希薄になる。自分が何をして過ごしたかを思い出せず、その日自体が丸ごと消えたような錯覚をも抱く。
これは痛みによって記憶を散らかされたからだと思っていたが、広義の「観察瞑想」状態にあったため、全てを受容せず流した結果だと捉え直すと、非常に興味深い。
集中していようがしていなかろうが、心が無駄に反応しなかった日は、すごく短く感じるものだ。色々なものが、片頭痛を通じて一つに収斂してくるようだ。
とはいえ今日は無理せず、急ぎの仕事でない限りは明日に回し、ケアに徹することにしよう。これが拗れると、起きるどころか生きること自体が辛くなってくるもんな。
僕にとって、体調が悪いときのメンタル状態は「観察瞑想」の果てにある世界に辿り着いたも同然のようだ。
もちろんこんなものは一般論ではないが、これこそが今日伝えたかったことである。ということで、今日はこの辺で。