今日は突然なんだという話だが、「自分をキャラクターとして見立てて、操作する感覚」が僕にとって最適な認識の仕方ではないか、という仮説について話してみる。
この内容はかなり主観的な要素が強いのだが、仏教哲学などのエッセンスも実は入っているため、我ながら非常に興味深いテーマだと思っている。
https://siratamablog.com/novel/sentence/1ninsyou-3ninsyou/
例えば、最近僕は体調を崩して、病欠してしまった。仮に同じ状態の他者がいたら、僕は間違いなく「無理せず休んで」と伝え、そのために行動を起こす。
これは正直社会として、会社として、または同僚或いは上司として、至極”当たり前”の考え方だとみて良いだろう。ここでケツを叩くやつは、あまりにも価値観が古い。
しかし、いざ自分のことになると、「こんなことで休んだら信頼を失う」「体調不良を認めたら信用されなくなる」とばかり考えてしまうから不思議である。
このような思考はやはり不健全だ。そんなのは客観的に見れば至極当たり前のことであるのに、自分が自分に対してそうは思えないことに、改めて気づかされた。
だからこそ「一歩引く」という考え方をもっとオートで発動する必要がある。そのためにはどんな考え方が要るだろうかと自問した結果出てきたのが、題名の思考だ。
今日は以下、それについてつらつらと書いていく。
自愛の極みとは、己のキャラクター化か?
僕はもう若くない年齢であり、自分を無理に追い込む方法から卒業すべきだと、ずっと感じてはいる。しかし、現実的にはそれがうまくできていない。
自己管理を改善するためには、いかに客観的に物事を捉えられるかが重要だ。それを見につけておかないと、何なら僕は永遠に社会を構成する一員になれない気もしている。
例えば、会議や議論の場で、批判や異論について、「個人攻撃された!」と受け止めて怒る人を見かけると、大抵は「大丈夫かコイツ」と訝しく思わされる。
建設的な異論・批判は、個人攻撃とは全く別の次元にある。それを理解していない人との議論は、死ぬほどめんどくさいし、だからこそ避けてしまう。
やはり客観的な視点を持つことは大人としてのマナーであり、なんなら必須のスキルだと考えている。しかし、それが常にできているなんて口が裂けても言えないわけで。
客観視とは何か。それはどういったフレームで物事を観察することを指すのか。これらに対して僕が試しているのが、「自分をキャラクターとして捉える」ことだ。
具体的には、自分の行動・思考を「誰かが操作しているキャラクターの動きや発言」として考えるというだけだ。
実際に行動し、話しているのは確かに僕なのだが、その僕を更に俯瞰で認知して操作する、いわば高次の存在を意識する。似た話は仏教にもあるくらい、奥深い観点だ。
このように思考を切り替えると、主観的なバイアスが軽減され、冷静な判断がしやすくなる。そんな風に僕は考えている。
実際、ゲームのキャラクターが、たとえ攻撃を受けても、操作しているプレイヤーにはそのままのダメージが入ることは無い。あるとすれば痛々しい勘違いだ。
同じように、経験自体を「キャラクターが体感したイベント」として捉えれば、感情的な負担を大きく軽減できるだろう。誰だって他人事には鈍感なのだ。
こうした見方は、物事をスムーズに進めるだけでなく、精神的なタフさも養える。そもそも受けるダメージが極小化するのだから、それ自体も自然な帰結だろう。
自分をプレイヤーとして捉え、選択肢を頭に浮かべながら行動する。そうすることで、より理性的かつ柔軟に物事に取り組めると感じる。これはもはや、確信に近い。
このメンタルモデルは、ストレス軽減や結果の向上にもつながるため、急いで身につけたいと考えている。
やはり「自分ごと」として考えすぎると、精神的に追い詰められることが多い。これは責任感という言葉で煙に巻かれがちだが、つまり鬱病に繋がる思考法だ。
この考え方を一層深く自分のものにして、より健全なマインドを築いていきたいと思う。では今日はこの辺で。