精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「苛立ち」を否定せずに受容することは、できないのか!?

最近、イライラが我ながら酷い。特にここ2日がピークで、なんか些細なことにもすごくイラっとする場面が増えてしまっている。

 

例えば昨日は、流石にやんちゃが過ぎる子供を叱って半泣きにさせるという場面があった。タイミングが良くて”指導”になったが、ぶっちゃけ感情的なキレが7割はある

 

また今日は、制限速度40㎞の区間を35㎞くらいで走る車に滅茶苦茶イライラしてしまった。正直遅刻寸前だったため猶更だ。

 

そして今僕は、こういう苛立ちを抱いたことに、何故か罪悪感や恥ずかしさを抱いている。と同時に、そんな女々しいことを思う自分に”苛立って”いる

 

何か良からぬことが僕の中で起きていることは明白だ。こういう時は言葉の力を借りて、それによって俯瞰するのが一番だと思っている。

 

今日はそんな何かと悪者にされがちな”苛立ち”を、むしろ肯定するためにはどうすればいいか、ここでみっちり考えてみる次第である。

 

 

僕の苛立ちを整理する。

 

まずはChatGPT等の力を頼る前に、自己分析を深めてみることにした。これまでの観察や経験などから、僕にとっての”苛立ち”には以下のような特徴がある。

 

① 疲労が深まったときだけでなく、極度の疲労から回復する途上でも強まる

② 大体小爆発を起こした後は、罪悪感や恥の意識を自分に感じる

③ 苛立ちのピークを越えると、ケロッと心が凪ぐことがほとんど

④ 家で暇なとき、何故か過去の腹立たしい記憶が想起されイライラすることが多め

 

こんなところだ。これを取っ掛かりとして、仮説を立ててみる。まず僕は、下園壮太氏の提唱する「蓄積疲労の3段階」をその通りだと納得し、信じている。

頑張り屋ほど「休み方」が下手 疲労の借金を返す理想的な方法:元・陸上自衛隊心理教官が語る「人生後半戦 心のトリセツ」:日経Gooday(グッデイ)


ここで2段階疲労(2倍モード)のところを見てみると、「イライラ」という項目がハッキリと書かれているが、実は同時に僕が感じている不調もそこに併記されている

 

実際、今僕は筋トレ等の運動系の日課が全て面倒で、負荷になりそうなことも言い訳をつけて回避しがちである。なんなら買ったゲームの起動さえ億劫なほどだ。

 

そして白状するが、割と最近は自分が苦手とする面談という仕事が隙間なく連続し、フル休みも20日くらい無いという状況を経た結果、多分僕は3倍モードに至っていた

 

過剰かどうかはわからないが、不安感だけでなく自分の能力の無力感も覚えていたし、それゆえに今の立場を速やかに退くべきだろうな、というところまで思い至った。

 

不思議なもので、そういう風に落ち込み切った段階に入ると、苛立ちを覚えることは本当に無かった。そんな感情を覚えるエネルギーさえ枯渇した、という風に。

 

―ただ幸いにも、ここ何日も自分が寝たいだけ寝る、飲みたいだけ飲むという不摂生を許可した結果、そのモードの時期は抜けたように思う。

 

だからまた僕は2倍モードに戻ってきて、イライラという感情を”取り戻せた”のではなかろうか。今は、実はそんな風に納得している。つまり僕は回復の途上なのだ。

 

先に紹介した下園壮太氏は、著書の1つで、鬱を長引かせる人の興味深い共通点を述べている。それは、少しでも身体が動くと自分を鍛えようとする、というものだ。

 

これはギクッとした。なぜなら僕は、明日から再び散歩・筋トレといった日課を再開させる気満々だったからだ。しかし僕はまだ、多大な疲労を抱えている状態だとしたら。

 

2倍モードと3倍モードを行ったり来たりすることとなり、つまりイライラした僕か、不安に潰されそうな僕しか表面に現れなくなるということではないか。これは最悪だ!

 

―これに輪を掛けてめんどくささを増しているのが、僕自身の生真面目さだ。僕が昔自分に期待していた理想像をまだ捨てられない僕がいて、そのメタが本当に五月蠅い。

 

「八つ当たりするとか、お前本当に33歳かよ?」「目の前の車の遅さにイラつくのは、そもそも朝の準備を遅延させたお前の落ち度だ!」という風に。本当に蠅みたいだ。

 

感情の発露として、苛立ち自体は自然なものだと頭では分かっているが、「傑物はそもそも苛立たない」という僕の無責任な価値観が、その納得を阻んでいる感じだ。

 

というよりダライ・ラマ氏自体も「怒ることがある」ほどなのだから、凡夫たる僕が怒りを捨てるとなれば、自分の脳にロボトミーか何かを施すしかないのではないか。

www.dalailamajapanese.com

 

理想と感情と価値観と行動の全てがグッチャグチャになっていて分化できていないという、僕の中の一番幼稚な部分が、この上なくはっきりと浮き彫りになっている。

 

苛立ちという感情は、それを教えてくれているように、今なら思う。感情は消せない。だが思念と行動は制御が可能だ。イライラしながらも、それを発露させない術はある。

 

僕はそれを改めて認識し、佐渡島庸平氏も最近陥ったというこのジレンマ(あるいは罪悪感)としっかり向き合うというのが、新たなスタートの起点になるような気がしている。

www.sady-editor.com

 

ということで今日はこの辺で。

 

 

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