精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「健康になる」という終わりのない努力をどう区切るか?

今、断酒を初めて3日目だ。とりあえず心配された寝つきの悪さとか、飲酒欲の暴走とかは特になく、むしろ酒浸りになっていた頃より心身共に健やかである。

 

多忙であることにかまけてサボっていた筋トレも少しずつ復活させており、今は胸が結構な筋肉痛になっている。少しずつ、自分の体が"戻っていく"自覚を得ている。

 

腸内環境を整える。ぐっすり眠れるようなルーティンを構築する。朝から晩まで元気に過ごす。ついでにめちゃくちゃ増えた白髪を減らし、肌にも潤いを取り戻したい。

 

今の僕は「健康」「美容」「カッコよさ」といった、永遠に終わらないゴールを目指して走っているということになる。となると、今はいいが、いつか燃え尽きるな、と。

 

とはいえ、こういった習慣の立て直しは、数多の経営者やクリエイターの言葉を読んでいると、「起点」に当たることだと唱える人が本当に多い

 

強い体に強い心が宿る。これは古い体育会系の揶揄なんかじゃなく、実際の状況を端的に言い表した真理の一つなのかもしれない。

 

ーだがこれこそ、僕のようなADHD気質の人間が最も苦手とするタイプの努力なのだ。すなわち、区切りが無いと頑張れない。そういうものだ。

 

特にそういうのを設定せずにやり遂げられたものといえば、正直禁煙以外に思い浮かばない。それくらい僕は、終わりなき努力との相性が悪いのだ。

 

受験であれば入試、減量であれば数値目標といったものが目安となる。では健康において、「健康になった!!」というのを定量化した数値は何なのか

 

今日はそれについて、珍しく暇な時間ができたので、考察してみたいと思う。

 

 

 

シンプルに僕はどうなりたいか?

 

まずはシンプルだが、答えるのが難しい問いを立ててみる。それは、「僕は健康になって、何がしたいのか?」だ。これは自問を深めても限界があるので、他力を借りる。

 

てことでしばらく問答をしてから、僕にとっての「健康になりたい理由」をChatGPTに紐解いてもらった。以下、それを引用しよう。

あなたの「健康になりたい」という願望の根底には、人生そのものをより豊かに楽しむための純粋な欲求があると見受けられます。具体的には以下のように整理できます。

1. 楽しさの時間を最大化するため

遊びも仕事も、「やりたいことを全力で楽しみたい」という思いが根本にあり、健康はそのためのエネルギー源と考えています。充実した1日を送り、未来に続く楽しさを手に入れたい――これがモチベーションの核です。

 

2. 不安やストレスを減らし、安らぎと没頭を得るため

あなたは、心の中の不安が空白の時間に入り込みやすいことを自覚しています。その対処法として、没頭やリラックスの質を高める健康的な習慣が重要であると感じています。健康な体と心が、自然に安定した精神状態をもたらすからです。

 

3. 自由と選択肢を広げ、好きなライフスタイルを実現するため

心身が充実していれば、もっと冒険でき、制約なく自由な生き方を選べます。飲みたい時に酒を飲み、楽しみたいことを存分に味わいながらも、節制と弛緩を自由に切り替えられる――そんな柔軟な生活を叶える健康を求めています。

 

まとめの一言

あなたが健康を目指す理由は、制約から解放され、人生を存分に楽しむための「自由と安定」を手に入れることです。遊び、仕事、そして何より「今この瞬間」をフルに味わうための力を得ること。それが、あなたの健康への動機です。

 

ーということで、要するに僕はもっと遊びたいのだ。一つの活動に没頭するのではなく、色々な活動をなるべく1日に、引いては人生に、詰め込みたいのだ。

 

それ自体はすごく納得感がある。例えば僕はキャンプが好きなのだが、事前にしたいことリストを作り、キャンプ飯まで決めてから実行するほどだ。

 

本来退屈な時間を楽しむのがキャンプといわれればそれまでだが、僕は傍目から見れば静的な時間であっても、その裏には計画と想いが隠れている構図が好きなのだ。

 

そしてChatGPTと問答を通じて閃いたのだが、不摂生モードと摂生モードを、それぞれ期間を設けてそれぞれに集中すると面白そうだと気が付いた

 

例えば酒を飲むのはいいけれど、2週間その期間を設けたら、摂生モードへまた切り替える。摂生に取り組むのはいいけれど、2~3週間でいったん満足する。

 

僕はこういう”区切り”をきっちり設けることで、己を律することができるというのは、薄々気づいていた特性ではある。それが活かせると悟ったのが今というのは驚きだ。

 

そう思うと、今はまだデータ集めの途上にいる気がする。純粋に、主観的に、体調の回復を実感できるにはどれくらいの期間が要るのか、それを観察するのが今ではないか。

 

「健康になる」という僕の定義を掘り下げていくと、まだ持っていないデータの必要性に行きついたというのは驚きだ。

 

終わりなき努力を区切るために必要なのは、一に目標数値、それがなければ二に仮説である。この発見はすごく大きい学びだ。

 

ではなぜそれが必要なのだろうか。これは【リーダーの仮面】に書かれてあった教えに、すごく似たものがあったのを記憶している。

 

それは、ガードレールがあれば人は安心して、そのラインまでは好き勝手に、伸び伸びと働ける、というものだ。

 

僕はどこまで不摂生しても身体が壊れないか知りたいし、壊れたとしてどれくらい頑張れば戻るのかも知りたいんだと思う。

 

前者は今回、ある程度のデータが得られたと思っている。では後者は?-僕はその答えを知らない。だから今、「健康になりたい」んだろうな、と。

 

僕は、自分をストイックに律した暮らしを常に送れるよう己を改造したいのではなく、自分の健康が戻るまでに必要な時間と労力が知りたいだけなのだ。

 

すごくスッキリした。期待していないだけに、何かしらの答えにたどり着けた今、素直に興奮する。またこの期間で得た気づきは、レポートとしてまとめようっと。

 

完全に置いてけぼりにしている気がするが、今日はこの辺で。

 

 

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