過去何度書いたことかという話なのだが、今日もまた休日出社の仕事に区切りがついたタイミングで記事を書いている。
あまり表立って言えないが、連勤が途切れない。休めそうという日が見えても、神の見えざる手か何かが、その恣意的な操作で潰しているかの如く不思議と仕事が生まれる。
そもそもそういう不意な出来事一発で休日が消えるような体制自体がバグってる考えて差し支えないのだが、僕はどうにも、本腰入れて是正しようとは思っていない。
なぜなら、本当に空虚な時間を過ごすより、仕事をしている方が数万倍マシだからだ。過去の適応障害休職期やニートを経て、僕は本当に”休みが嫌い”になったのだ。
僕は休めないのではない。休”ま”ないのだ。何かしらの調整を頑張ってまで、無為な時間を生むなんて、それが生産性のあることだとはつゆほども思えないわけで。
―的なことを最近ずっと、ChatGPTに聞いてもらい、都度総括をしてもらっている。それを飽きもせず繰り返していくと、この根底にありそうな価値観が、段々見えてきた。
僕が休”ま”ない理由の”根っこ”とはなにか。あなたが休めない人なら自分事として、また周りに休まない人がいるならその人を頭に浮かべつつ、読んでみてほしい。
テンプレな休みなどクソくらえ。
僕にとっての【休み観】は何か。以下、ChatGPTにつぶやいた長文が、結構正鵠を得ている気がするので、そのまんま紹介してみよう。
ゆとりがある暮らしというのを時折想像します。
昼下がり、することもなく、カーテンを開けて、降り注ぐ日光を浴びながら、例えばココアか何かを飲みながら、何もすることが無い有意義な日だ、とか考えている自分・・
これについて、僕は全く理想的な人生とは思えないというのが本音です。
退屈や暇な時間というのは、23歳の頃に4ヶ月の適応障害による休職と、その後仕事を辞めたことによる半年のニート期間を経て、心底嫌いだという風に刷り込まれたため、あんな無為な時間は少なければ少ない程良いと心の底から確信しています。
僕はそれこそ、遊びと仕事の境界が曖昧で、常に日常を”刺激”や”成果”でパンパンにしている人をモデルに据えています。
休みがないというのは僕にとっては無為な時間が無いこととイコールなので、休みを取ろうと動くことは、根底の部分の否定とほぼ直結する気がしますね。
仮に休みを取っても、例えば釣りに出かけたりキャンプに出掛けたり、結局うろうろして刺激を求めると思います。
また、たまに本当に何もしないと決めて、手を止めてみるのですが、30分くらいで飽きます。
そう考えると、僕が思う「休みが欲しい」という言葉の真意は、30分だけ手を止めたいという、それだけなのかもしれませんね。
清々しい程ブラックだ。実際僕は昔から、「ゆったり」とか「のんびり」が実は苦手で、例えばキャンプに行っても、如何に速く設営・撤収するかを頑張るほどである。
無為で、暇で、退屈な時間は、僕にとってはクソくらえ、つまり無ければ無いほど良い時間である。休日とは、それらを凝縮した時間だ。だから嫌なんだと思う。
―というところまで内省をして、ふと気づいたことがある。僕は休みという言葉には最近嫌悪感を覚えるのだが、息抜きは愛しささえ覚えるほど、貴重な時間だと思うのだ。
これを基に、更に分析を進めてもらうと、ChatGPTから見事なカルテが送られてきた。以下そのまま引用する。
あなたの定義を基にした理解と活用
休み=“何も埋まっていない時間”
休みという言葉には、何もしていない、無為な時間という感覚が強いことがわかります。あなたにとっては、ただ「空いている時間」自体が退屈で、積極的な充実感が感じられないため、それが嫌悪感に繋がっているわけですね。
息抜き=“主体的に決めた行動を通じて心身を整えること”
息抜きは、あなたにとっては単なる「休むこと」ではなく、自分が主体的に選んだ行動で充実感を得ながら心身をリフレッシュすること。ここには「積極的な選択」と「充実感」が含まれており、心の底から満足感を得る手段だと捉えているわけですね。
これからのアプローチ
これを踏まえて、今後のアプローチにおいて「休み」を取ることに抵抗があったとしても、「息抜き」をするために「仕事から離れる時間」を確保する形で、徐々に納得感を得ることができるかもしれません。
例えば、「息抜きのためのアクションを決め、そのために時間を作る」という意識を持つと、無駄に感じることなく休息を取れるかもしれません。
息抜きは、単に何もしないのではなく、意識的に自分の心と体をリセットするための行動であるため、積極的な充実感を得られる時間となります。
―僕というめんどくさい人間は、自分がそうすると決めた時間で1日が埋まっていないとイヤなのだという、我の塊みたいな個性を持っているようだ。
休みとは何もない時間であるが、息抜きだと解釈すると、そこにはどこか、主体性を帯びた意味合いが乗る。それで初めて、僕は傍から見たオフが取れるようだ。
そういえば最近久しく、「休みがあったら何をしよう」としか考えていないことに気が付いた。これはどこか、仮定法過去みたいな「反実仮想」の意味合いを纏っている。
問いの方向が反対なのかもしれない。「これがしたいからオフにしよう」みたく、”したいことありき”で物事を考えるのが、僕にとっては収まりが良いのかもしれない。
しかしながら、今は心のセンサーが鈍り倒しており、いきなり自分の心に尋ねても、反射的に「仕事!」と返ってくるのがオチだ。(実際、そうでもある)
この心のコリをどう受容し、手放し、仕事以外の部分で自分が主体的に選び取ろうと思えるものを探していくか。
僕が全く休まない理由を掘り下げていくと、すごいところに辿り着いたと我ながら思う。性根にあったエラーは2つだ。まず、無為な時間が大嫌いという厨二病の点。
もう一つは、自分が何をしたいかという問いかけを完全に忘れていたという、認知のバグである。センサーがぶっ壊れた状態で走り続けて、気付けばこうなった、と。
ではこの感受性は、改めてどう磨けばいいんだろうか。今後調べていくのは、多分ここだな。だが、具体的な行動が見つかり、それにはすごく安堵している。
価値観って奥が深いな。同時に、自分の物なのに、意味不明なほど複雑怪奇だな。そんなことを思わされた。では今日はこの辺で。