精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

羽生善治流・集中力の鍛え方が凄く理にかなっている件について。

もう何回目か分からない再読だが、【大局観】を久しぶりに頭から読み始めて、その面白さにやはり引き込まれて、毎朝10分くらい読むのを日課にしている。

読書は再読するたびに刺さるポイントが変わるのが面白いのだが、今回僕の心に「なるほど!」と腹落ちしたのは、【集中力の鍛え方】に関する部分だ。

 

それを端的にまとめると、以下の3つがそのポイントらしい。

 

 集中力をつけるのに効果的なトレーニング法はいくつかある。


 第一の方法は、何も考えない時間を持つことだ。


 第二の方法は、一つのことをじっくり考えることに慣れることだ。


 第三の方法は、時間と手間のかかることに取り組むことだ。

 

w.shiawasehp.net

 

集中力という、目にも見えなければ意識することさえ困難な能力において、ここまで観察を達成していることに、僕は舌を巻く。そしてそれが凄く理に適っていることにも。

 

今日はこの3つのポイントについて、僕の体験をくっつけて、やや稚拙にはなるだろうけど、解説もどきを入れてみたいと思う。

 

 

実はかなり難しい、「何も考えない時間を持つこと」。

 

集中の対義語にも聞こえるが、実は意図的に「何も考えない」という意識を持つことも、確かに集中力強化に繋がるように思える。言い換えれば、思考を拡散させるのだ。

 

集中とは、カメラで言うと一点に強くピントを合わせるようなものだ。一方拡散とは、画角を広く取り、多くの対象を切り取るイメージがわかり易いように思う。

 

抽象的な話が続いてしまうが、集中は、短い時間でたくさんの問題を矢継ぎ早に解く、あるいは目の前の動作に瞬発的に反応する際に大事な力だと言える。

 

一方拡散とは、頭の中に入っている情報を繋げ、電球がバッと飛び出すかのように、創造的なアイデアや解決策を閃きたいときに使える思考法だ。

 

忘れていた人の名前や、試験中に思いつかなかった問題の解法が、例えば風呂に入っているときなどに突然閃くのは、脳が拡散思考に入っていることの好例である。

 

何も考えないとは、集中していないことを指すが、だからと言ってサボっているというわけではない。創造性のためには欠かせない、大事な時間なのだ。

 

しかも、そもそも「何も考えない」ことには、実は結構意識や体力を使う。頭に立ち込める反芻思考やネガティブな思い出を認知し、そこから意識を切る。それを繰り返す。

 

そうやってスーッと意識が遠くなったとき、初めて「何も考えない」ことができるのだ。ちなみに羽生氏は、オフの日はよく、ソファで何時間も「何も考えない」という。

 

プロ棋士のレベルになると、思考を止めることすら自在なのかと、少し身震いするほどのすごさをそこに感じている。

 

実は意識的に磨かないと無理。「一つのことをじっくり考えることに慣れる」

 

一つのことをじっくり考える。これについては、「これなら俺でもできるわい!」と安堵する人が多い。

 

聞けば、「だってゲームやってたら、何時間でもやれちゃうからね!」という理屈であった。なるほど、それ自体はすごく腑に落ちる具体例だと思う。

 

ただ、僕はそこに、一つ必須条件があると思う。それは、常に自問自答しながらそれと向き合っているかどうか、だ。

 

例えばプロゲーマーのインタビューを読んでいると、ゲームという”競技”に対して、とても真剣に、かつ自問自答を繰り返しながら向き合っていることがよくわかる。

r25.jp

 

地元なり学校なりでゲームが強いヤツ程度では絶対に歯が立たないと断言できるほど、その思考の下には膨大な経験・仮説・知識が隠れている

 

一つのことをじっくり考えることは、楽しいから自動操縦モードで夢中になっていることとは、また少し違うのだ。

 

ちなみに、自分が日頃から、自分が没頭できていることに頭を使えているかを確認する方法は、意外と簡単だ。心構えや動作を、人に説明できるか、確認するといい

 

もしそれができないとしても、落ち込むことはない。学習のチャンスだからだ。無意識で行っている動作や工夫を言葉にすれば、一層自分に腹落ちさせることができる。

 

プロと呼ばれる方々で、自分が行っている動作の説明がへたくそな人を僕は知らない。無意識を意識下に持ってきて言語化し、仮説を作ってまた試す。

 

”一つのことをじっくり考える”ことは、それくらい粘り強く、泥臭く取り組まなければならないのだろうと、僕は納得している。

 

コツコツと積み重ねる力を鍛える。「時間と手間のかかることに取り組むこと」

 

最後のこれについては、僕の中で具体が伴っていない。なんなら、この記事を書きながら、何かしらの手応えが得られればいいなと、そんなラフな感じで考えている。

 

さて。羽生善治氏は、「非常に長大な小説を読むなど、一定の集中力や理解、記憶が求められる何かに、腰を据えて取り組むこと」といった感じで書いていたと思う。

 

ここには、それによって何らかの能力を鍛えるというニュアンスは感じない。「他者のアウトプットを丁寧に追体験する」という意味合いの方を、僕は強く感じる。

 

自分が過去に読んだ小説の中で、一番の長編はなんだったろう。竜馬がゆく」と「坂の上の雲」、あとは「親鸞」がそれに該当するだろうか。

これらの小説を読んで学んだこと、感じたこと。一つあるあるを考えると、例えば第1巻の登場人物が、第3巻で出てきたときなんかは、「誰だっけ?」と思うことがある。

 

物語をきちんと味わうには、ストーリーはもちろん、登場人物一人一人もしっかりと記憶しておく必要がある。ときには一旦戻って読み直し、知識を入れ直したものだ。

 

手間暇をかけてその作品の世界に浸り、全てを読了した後の達成感は確かに半端ではない。それが集中力の鍛錬に繋がるということなのだろうか。

 

ここでふと頭に浮かんだのは、「体系化された知識」という言葉だ。何度も補修し、体験し、更新した一つの巨大な知識は、どこを起点にしても、全て思い出せる。

 

僕ら世代で言えば、「遊戯王」「NARUTO」といった漫画は何度も徹底して読み込んだため、場面を一つ言われれば、5W1Hが全て思い出せる自信がある。

 

これを構築するには「好き」という意識も勿論大切だが、集中力がその接着剤の役割を果たしていると考えたら、僕の中ですごく収まりが良くなっていく

 

あるいは淡々とした作業の中に面白さを見つける力とも言えるし、長尺で気持ちを切らさない心構えを身に着ける、というトレーニングにも聞こえる。

 

手間暇をかけて、一つの何かを作る。今度おもちゃ屋にでも行って、直感でそれっぽい玩具でも買うことにしようかな。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

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